第90話 王女の手
夜明け前、王都の火はほぼ消えた。
煙は残っている。
負傷者の呻きもある。
でも、街は落ちなかった。
西門の石畳は焦げ、北塔の外壁には魔法弾の痕が並ぶ。
それでも、穀倉は一棟も燃えず、避難路で倒れた民は一人も出なかった。
数字だけ見れば、奇跡に近い夜だ。
けれど湊は知っている。
奇跡じゃない。
手順だ。
誰かが夜通し積んだ手順が、朝までちゃんと持っただけだ。
中庭へ戻った兵たちの顔には、疲労と一緒に信じがたいものが浮かんでいた。
本当に防ぎ切った。
本当に勝てた。
「終わった……のか」
若い兵が呟く。
「いや」
湊は首を振った。
「まだ裁く方が残ってる」
内部の敵は倒しきれていない。
ガルド本体も、王城の奥でまだ立っている。
でも、王都決戦としてはここで勝った。
その空気の中、リゼリアが中庭の石段を下りてくる。
戦装束ではない。
それでも誰よりも場の中心に見えた。
彼女は負傷兵の間を、順に歩いた。
包帯を巻かれた若い兵の前では、膝を折って目線を合わせる。
「痛みますか」
「い、いえ……殿下の前で、寝てるわけには」
起き上がろうとする兵を、彼女は手で制した。
「あなたが持ち場を守ったから、後ろの区画は燃えませんでした。今夜は、休むことが役目です」
兵の目が、じわりと赤くなった。
彼女はそれを見なかったふりをして、次の兵へ移る。
そうして最後に、湊の前で足を止めた。
「あなたのおかげで、王都は立ちました」
「みんなが持ちこたえたからです」
「それでも、最初の形を作ったのはあなたです」
次の瞬間、リゼリアは迷わなかった。
湊の手を取る。
細い手だった。
夜通し通話板を握り、指示を書き続けた指には、インクの痕がまだ残っている。
そして、ほんのかすかに震えていた。
一晩中、声には決して出さなかった震えを、この手が全部引き受けていたのだ。
その手が、迷いなく湊の手を掴み、一段だけ石段の上へ引き上げる。
場が完全に止まる。
兵も貴族も、書記官も、誰も声を出せない。
リゼリアは湊の手を離さないまま、全員へ向き直った。
「本来なら、公の場でここまで示すべきではありません」
「ですが今日は、例外にします。この人が、わたくしの切り札です」
「そして、ルーメリアを立て直すために、わたくしが手放さない人です」
あの独占宣言より、さらに強い。
もう政治的建前だけでは片づかない位置まで来ていた。
最初に動いたのは、辺境から来た兵たちだった。
誰からともなく、片膝を地へつく。
量産槍を杖代わりにした、傷だらけの手で。
王女へというより、夜通し同じ盾の後ろで生き延びた相手へ向けた礼に見えた。
続いて、王都の兵が倣う。
昨日まで「異邦の職人」を胡散臭く見ていた者ほど、深く頭を下げた。
この一夜、彼らは確かに湊の引いた線の上で生き残ったのだ。
貴族たちの反応は割れた。
露骨に顔をしかめる者がいる。
だが、その何倍もの数が、もう逆らえないと察した顔で口を閉じていた。
風向きは昨夜のうちに変わっている。
それを今、王女が公の場で形にしただけだ。
書記官の一人が、震える手で羽根ペンを走らせ始めた。
この瞬間を記録へ残すためだ。
後の世がルーメリアの分かれ目を読むとき、その最初の一行は、たぶんここになる。
湊の頭は一瞬真っ白になった。
王都中庭で。
衆目の前で。
そこまでやるか普通。
けれど、リゼリアの横顔に揺れはなかった。
照れではなく、完全に政治の顔だ。
背後で、カナンが深く息を吐く音がした。
振り返ると、悔しそうに笑っている。
「優勢だな、王女様」
「煽るな」
「でもまだ負けてない」
カナンははっきり言った。
「勝負を降りる気もない」
それを聞いて、なぜか湊は少しだけ救われた。
誰も簡単に終わらせる気がない。
国も、恋も、まだ続く。
夜明けの光が王都中庭へ差し込み始める。
戦いのあとの静寂の中で、次に来るのが決着の場だと誰もが分かっていた。
公開裁定。
そこで全部を白日の下へ引きずり出す。
ルーメリアを蝕んできた争いは、いよいよ最後の局面へ入ろうとしていた。
毎日21時更新予定。お気に入り登録ぜひよろしくお願いします。




