第72話 偽恋人の再契約
王都へ戻った翌日、リゼリアは湊を私室の隣にある小さな応接間へ呼んだ。
護衛は外。
中には二人きり。
机の上には文書が一枚。
「嫌な予感がする」
湊が椅子へ座る前に言うと、リゼリアは涼しい顔で頷いた。
「正解です」
差し出された文書の表題には、こうあった。
第三王女付特別技術顧問 兼 私的随伴人 登録書
「名前が長い」
「偽恋人契約を公文書にしようとすると、こうなります」
「名付けたのは」
「わたくしと法務の老書記です。彼は三日悩んでいました」
悩んだ末にこの名前なら、王都の法律用語はだいぶ追い詰められている。
「やっぱりそういうやつか」
湊は書面を持ち上げ、灯りに透かした。
紙は王家の正規文書用、印は王女印と文官印の二重。
作りだけ見れば、国宝級にお堅い。
中身が偽恋人でなければ、だが。
以前の偽恋人は、内輪向けの私的後援契約書一枚で押し通した。
だが今の王都は、湊の価値を認め始めたからこそ、奪い合いの理屈も増えている。
どこの派閥にも取られないためには、リゼリアの手元に置く名分が要る。
実際、帰還からまだ二日だというのに、湊の元には三つの派閥から誘いが来ていた。
工務局の顧問職。
大商会の専属技師。
どこかの伯爵家からは、娘との縁談付きまで。
全部断ったが、断れば断ったで角が立つのが王都だ。
「形式上は再契約です」
リゼリアが言う。
「実質的には、あなたをわたくしの陣営から引き離させないための楔ですね」
「わたくしが手放さないための、表向きに正しい形とも言えます」
「正直で助かります」
「今さら飾っても仕方ありません」
リゼリアは茶器を引き寄せ、自分で二人分を注いだ。
給仕も外してある、ということだ。
この部屋の中だけは、政治の言葉を使わなくていい。
そういう線引きを、彼女は最初から決めてきたらしい。
文面を読めば、確かに理屈は固い。
王女の安全保障に関わる技術顧問。
随伴を必要とする召喚契約者。
第三者による引き抜き禁止。
だが、最後の一文だけ妙に柔らかい。
『当人同士の信義に基づくものとする』
「そこだけふわっとしてません?」
「そこが一番大事なので」
そう言われると弱い。
湊は最後の一文をもう一度読む。
信義、という言葉を公文書で見るとは思わなかった。
契約は破れる。
権利は奪える。
でも信義だけは、書いた本人たちにしか扱えない。
つまりこの文書の本体は、肩書きでも禁止条項でもなく、この一行だ。
湊が署名板へ手を伸ばすと、リゼリアも同時に手を伸ばした。
指先が少しだけ触れる。
前なら互いに引いたはずなのに、今回はどちらもすぐには離さなかった。
「……演技、ですよね」
湊がぼそっと言う。
「王都では」
リゼリアが返す。
「少なくとも、王都では」
言い方がずるい。
結局、二人は正式に署名した。
署名を終えた紙の上で、互いの名前が並んでいる。
文字の癖まで対照的なのに、並びだけは妙に収まりがよかった。
その日の午後には公表までされた。
反応は面白いほど割れた。
第二王子派は露骨に顔をしかめ、王都の噂好きは色めき立ち、リゼリア派の一部は安堵する。
そして、どこまでが政治でどこからが本気か、誰にも判断できなくなった。
公表からほんの数刻で、政務棟では早速賭けが立ったらしい。
本物か、芝居か。
賭け率はほぼ五分だと、書記官がこっそり教えてくれた。
当人としては、どっちに転んでも負けた気がする賭けだった。
「前より距離が近すぎる」
その日の夕方、カナンが不機嫌そうに言った。
「何が」
「全部だ」
「雑だな」
「私は雑でいい」
工房へ向かう廊下での会話だったが、カナンはそこで足を止めた。
「でも、覚えとけ」
まっすぐ湊を見る。
「契約があるからって、勝負まで決まったわけじゃない」
言い切ってから、彼女は先に歩いていく。
背中は普段通りなのに、耳だけ少し赤い。
廊下に残された湊は、少しの間その背中を見送った。
勝負、ときたか。
契約書の最後の一文が、別の意味でのしかかってくる。
信義に基づく、か。
誰に対する信義かまでは、書いていなかった。
偽恋人の再契約は、政治的には単なる手続きだ。
けれど実際には、王都全体へ向けて新しい立場を宣言することでもあった。
湊は署名済みの文書を見下ろす。
前よりずっと危うくて、前よりずっと現実味がある。
たぶんもう、完全な“偽”だけでは片づかない。
そんな予感が、静かに根を張り始めていた。
毎日21時更新予定。お気に入り登録ぜひよろしくお願いします。




