第68話 第二王子派の焦り
市場が戻った三日後、辺境伯領の空気がまた変わった。
今度は、良い方じゃない。
北門近くの宿で火の手が上がりかけ、南の倉庫では帳簿が盗まれ、夜にはアルヴェインの側近が何者かに斬りつけられた。
全部が未遂で終わったのは、湊が各所へ配っていた警報具と、連絡板が働いたからだ。
宿の女将は警報具の鈴が鳴った瞬間に水瓶を倒して火種を消し、倉庫番は連絡板の合図で増援を呼んだ。
側近を狙った刃は、駆けつけた巡回兵の槍に阻まれている。
どれか一つでも欠けていれば、今ごろ町は煙と噂で揺れていた。
「露骨になったな」
カナンが血のついた短剣を布で拭う。
「焦ってるんだろ」
湊は回収した起動石を指で弾いた。
「辺境が立ち直り始めるのが、一番困る連中だ」
破壊なら、直せばいい。
だが連中が本当に狙っているのは物じゃない。
“また駄目になるかもしれない”という空気だ。
人は建物より先に、気持ちから崩れる。
それを辺境で嫌というほど見てきた。
盗まれかけた帳簿を調べていた文官が、青い顔で駆け寄ってくる。
「買収の痕跡があります。南街道の代官へ、王都経由の金が」
「第二王子派か」
「それだけではありません」
文官は唇を震わせた。
「使者を案内した宿の女中が、青い鷹の刺繍を見たと」
青鷹。
ここへ来て、ようやく名だけではない手触りが出てきた。
その夜、カナンは襲撃者の一人を追って北外れまで走った。
だが捕まえきる直前、相手は仲間に矢で射抜かれて口を封じられる。
逃げ去る騎影は一つ。
月明かりの下、その男だけが振り返った。
黒い外套。
青い羽根章。
右目の下を横切る古傷。
カナンが珍しく顔色を変えた。
「知ってるのか」
戻ってきた彼女へ、湊がすぐ聞く。
「ああ」
カナンは短く答えた。
「レイス・ヴァルタ。青鷹の実働隊長だ」
「実働隊長」
「汚れ仕事専門の犬だよ。買収、脅迫、失踪、暗殺未遂。青鷹の噂話にだいたいこいつがいる」
「直接やり合ったことは」
「一度だけ、依頼先で半端に剣を合わせた。深追いする前に依頼主の方が消されて、それきりだ」
カナンは短剣を布ごと卓へ置いた。
「腕も立つが、それより引き際が上手い。ああいうのが一番しつこい」
ようやく敵に顔がついた。
湊はその名前を頭の中で繰り返す。
レイス・ヴァルタ。
無数の嫌がらせの向こうにいる、具体的な誰か。
それだけで戦いは少し変わる。
「なら、次は追う価値がある」
「簡単には尻尾を掴ませないぞ」
「でも焦ってる」
湊は盗まれかけた帳簿を持ち上げる。
「焦ってる敵は、手数を増やす。手数が増えると痕跡も増える」
「で、痕跡が増えると?」
「辿れる。盗賊と違って、組織は金と指示で動くから。金は帳簿に残るし、指示は人の口を通る」
「職人の言うことか、それ」
「帳簿も人の流れも、構造だよ」
カナンは呆れ半分、感心半分の顔で肩をすくめた。
翌日から、辺境伯領の警戒はさらに一段上がった。
穀倉、工房、役所、広場。
全部の入口へ警報具。
連絡板は時刻ごとの定時確認制。
護衛経路も毎日変える。
湊は配置図を壁に貼り、変更のたびに前日の図を燃やした。
紙を残せば、紙から漏れる。
青鷹に教わった手口は、そのまま防ぎ方の教科書でもある。
「職人の発想じゃないな」
アルヴェインが苦く笑う。
「構造の穴を埋めてるだけです」
「それを軍は防衛計画と呼ぶ」
「呼び名はどうでも、穴が塞がれば」
「その言い草がもう技師ではないと言っている」
アルヴェインは笑ったが、目は笑っていなかった。
側近を狙われた夜から、この男の眠りは確実に浅くなっている。
夕方、リゼリアからの短い通信が入った。
『王都でも、兄上派の動きが荒くなっています』
『気を付けてください』
それだけなのに、紙の向こうの緊張が伝わる。
湊は短く返事を書いた。
『そちらこそ。こちらは守りを固めました。倒れる予定はありません』
少し迷ってから、もう一行足す。
『約束したので』
送ってから、柄にもないことを書いたと思った。
でも、消さなかった。
湊は外へ出た。
町の灯りは前より増えたが、その分だけ狙われる理由も増えている。
立て直すというのは、目立つということだ。
通りの先では、夜回りの兵が連絡板の定時確認を済ませ、宿の軒先では女将が新しい警報具の鈴を磨いている。
襲われた町は、怯えるどころか手順を覚え始めていた。
それが何より、敵への返答になっている。
けれど、もう隠れて進める段階ではない。
第二王子派の焦りは、辺境伯領の成功を何より雄弁に証明していた。
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