第67話 市場が戻る朝
辺境伯領で止まっていた朝市が、三週間ぶりに立つことになった。
理由は単純だ。
道が通り、荷車が壊れにくくなり、兵が護衛できるようになったから。
たったそれだけで、人は戻ってくる。
夜明け前の広場には、まだ半分しか店が並んでいなかった。
それでも、誰もが少し落ち着かない顔をしている。
本当に客が来るのか。
途中で襲われないか。
売るだけ損にならないか。
暗いうちから場所取りをしていた女たちは、互いの顔を見ては小声で同じ問いを交わしている。
三週間前、最後の市は荷崩れと盗難の噂で散々だった。
あの記憶を上書きできるかどうかが、今日で決まる。
「この空気、嫌いじゃないな」
カナンが言う。
「戦場の前みたいなこと言うな」
「似たようなものだろ。みんな、今日で何かが変わるか試してる」
そう言いながら、カナンの目は広場の入口へ向いていた。
護衛任務の顔だ。
祭りの朝でも、この人の中では警戒が眠らない。
そのことが、今日は妙に心強かった。
やがて、一台目の荷車が広場へ入ってきた。
車輪は湊が直した規格軸。
荷台には乾燥豆と布束。
続いて二台、三台。
農家が籠を下ろし、鍛冶屋が金具を並べ、薬草売りの老婆がいつもの場所へ座る。
荷紐を解く音。
天秤が軋む音。
桶の水が跳ねる音。
どれも特別な音じゃない。
でも、三週間止まっていた音だ。
人の流れが戻る音がした。
「おお……」
誰かが小さく息を呑んだ。
市場は、開いた瞬間から市場になるわけじゃない。
最初の一時間は、互いに様子を見合う。
だが、最初の値切り声が飛び、次に笑い声が混じったところで、一気に空気がほどけた。
子どもが焼き麦を買って走り、兵士が補修用革紐をまとめ買いし、農夫が新しい鍬の刃を手に取る。
広場の端では、講習を受けた職人たちが結界板用の金具を実演販売まで始めていた。
「売ってる……」
湊は少し呆れた。
ドンが胸を張る。
「売れるものは売る。国が貧乏だからな」
正しい。
正しすぎて何も言えない。
見れば、ドンの店先には講習で使う治具の見本まで並んでいる。
「治具まで売るのか」
「売らん。あれは客寄せだ。見て真似できる程度のやつは、どうせ講習に来る」
口は悪いが、商売の筋は通っている。
職人の学校は、こうして市場にまで根を伸ばし始めていた。
午前の終わりごろ、アルヴェインが広場を見渡しながら言った。
「数字にすると大した規模じゃない」
「でも、人は数字の前に景色で安心します」
湊は答える。
「店が開いて、物が流れて、兵がそれを守ってる。まずはそれを見ないと」
カナンは屋台で串焼きを買って戻ってきた。
一本を無言で湊へ差し出す。
「褒美」
「何の」
「市場」
意味が雑すぎる。
でも受け取る。
塩気の強い串は、妙にうまかった。
「店主、商売繁盛か」
カナンが屋台の親父へ声をかけると、親父は日に焼けた顔をくしゃりとさせた。
「三週間ぶりの商いだ。炭の火加減を忘れてないか、朝から心配だったよ」
「忘れてなかったな」
「だろう」
そういう小さな自慢が、あちこちの店先で交わされている。
広場の中央では、王女の布告を読み上げる役人へ拍手が起きていた。
王都の政治が、ようやく遠い紙ではなく、目の前の市と繋がったのだ。
その光景を見たとき、湊はようやくはっきり思った。
国力ってやつは、壁の高さや兵の数だけじゃない。
朝の市場に、何人が笑って立てるかでも決まる。
祖父の図面には、武具よりも水路や倉の設計の方がずっと多かった。
その理由が、今なら分かる気がする。
戦は国の一番派手な瞬間で、市場は国の一番長い時間だ。
長い時間を支えるものを直さない限り、国は立て直らない。
昼前、通話板が一度だけ淡く光った。
短い文が届く。
『市場の話を聞きました。よかった』
リゼリアからだった。
湊は広場を見回し、少し迷ってから返す。
『まだ小さいですけど、ちゃんと国の音がしてます』
返事はすぐには来なかった。
でも、それでよかった。
返事の代わりに、昼過ぎの広場はいっそう賑やかになった。
午後には隣村から遅れて来た荷車が二台増え、夕方の店仕舞いまで客足は途切れなかったという。
帳簿に載る数字は小さい。
それでも、明日も市を開こうと誰もが思った。
それが今日の一番の売上だった。
市場が戻る朝は、辺境伯領にとってただの営業再開じゃない。
崩れかけていた国の日常が、もう一度立ち上がる音だった。
ただ――その立ち上がる町を、人混みに紛れて数えるように眺めていた行商人が一人いたことには、まだ誰も気づいていない。
カナンの警戒の網にも掛からない、ごく普通の顔で。
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