第62話 荒地を畑に変える日
翌朝、湊が最初に向かったのは兵舎でも穀倉でもなく、町外れの畑だった。
「そこからか?」
カナンが眉を上げる。
「兵は腹が減るし、町は税で死ぬ。でも畑が戻れば、両方まとめて息を吹き返す」
案内された南畑は、見渡す限りひび割れていた。
去年までは麦が育っていたらしいが、今年は半分以上が放棄されている。
水路はある。だが流れていない。
湊は畝の間にしゃがみ込み、土を掴んだ。
表面は乾いているのに、その下だけ妙に湿っている。
さらに用水の石桝を見れば、流入口と流出口の高さが合っていなかった。
「これ、壊れたんじゃなくて、直し方を間違えたな」
水路番の老人が目を丸くする。
「分かるのか」
「勾配が逆です。それと途中の排泥口が潰れてる。水が流れずに溜まって、下だけ腐ってる」
言いながら、湊の頭の中へ流れの線が浮かぶ。
石の継ぎ目、土の圧、堆積した泥の重さ。
結界でも槍でもない。
ただの水路だ。
でも人が作った構造なら、同じように読める。
「直せるのか?」
農夫の一人が恐る恐る聞く。
「今日中に水は通します」
湊は立ち上がった。
「ただし俺一人じゃなく、ここにいる全員で」
午前は、泥さらいだった。
兵士まで総出で鍬を持ち、詰まった排泥口を掘り返す。
最初はぶつぶつ文句を言っていた若い兵も、カナンに無言で睨まれてからは黙って働いた。
昼前には、勾配のズレた石桝を一度外す。
湊は簡易の水準棒を作り、石工と一緒に一枚ずつ角度を合わせていった。
「王都じゃ、こんなこと誰も見なかった」
農婦が呟く。
「王都は遠いですから」
湊は汗を拭った。
「でも、ここは遠くても国の中なんで」
午後、最後の泥板を外した瞬間だった。
ごぼ、と低い音がして、水が走った。
最初は細かった流れが、数呼吸で幅を増していく。
乾いた畝の脇へ、透明な筋が伸びた。
「おい、来たぞ!」
「本当に流れた!」
歓声が上がる。
子どもが裸足で駆け寄り、老人がその場でしゃがみ込んだ。
ただ水が戻っただけだ。
けれど、この土地ではそれが何より大きかった。
だが、歓声は長く続かなかった。
下流の畑から、別の叫びが上がった。
「止めろ! 南の畦が抜ける!」
湊は振り返る。
水が早すぎた。
乾ききった畦が急に圧を受け、古い分水口の脇から土が崩れ始めている。
「まずい」
カナンが走る。
湊も泥へ飛び込んだが、先に怒鳴ったのは水路番の老人だった。
「だから一気に通すなと言った! この畑は下が腐ってる。先に逃がし溝を開けるんだ!」
言われて、湊は土の割れ方を見た。
表面の乾きに気を取られていた。
下の湿りは、ただ溜まっていた水ではない。
昔の逃がし溝が埋まり、腐った層になっていたのだ。
「……俺の見落としです」
湊はすぐに頭を下げた。
農夫たちの顔に、不安が戻る。
さっきまでの希望が、ほんの一つの判断ミスで揺らぐ。
「止水板、半分戻す! 南の畦は土嚢で押さえる。逃がし溝は、老人の言う線で掘り直す」
「ワシの?」
「はい。俺よりこの畑を知ってる」
水路番の老人は一瞬だけ目を見開き、それから杖で地面を叩いた。
「なら聞け! 昔の溝はこっちだ。石に苔が残ってる。そこを開ければ水は暴れん!」
そこから先は、湊の指示ではなく、老人の記憶と湊の測り直しで進んだ。
一度戻した水を、細く逃がす。
腐った層へ直接圧をかけず、畑の外周から湿らせる。
地味で、遅い。
だが今度は、畦が悲鳴を上げなかった。
湊はさらに排水溝の口へ木製の目盛り板を立て、誰でも水量を見られるようにした。
増減を感覚だけに任せないためだ。
「明日からは畑ごとに順番を決める。水を取り合わないで済むように」
「そんな細かいことまで決めるのか」
アルヴェインが呆れ半分で言う。
「こういう細かいことで村は壊れます」
辺境伯はしばらく水の走る音を聞いていたが、やがてゆっくり頷いた。
夕方になるころには、乾いてひび割れていた土がようやく表面だけ湿り始めていた。
農夫たちの顔色も、朝とは別人みたいだった。
「王都の偉いのが何かくれたわけじゃねえ」
若い農夫がぽつりと言う。
「あの職人と、爺さんが、水を戻したんだ」
その言葉に、周囲が小さく頷く。
湊は聞こえないふりをした。
褒められるのは嫌いじゃない。
でも、これはまだ始まりだ。
それに、今回は一度間違えた。
現地の古い知識がなければ、戻した水で畑を壊すところだった。
畑へ水が戻っただけで、国が救われるわけじゃない。
それでも。
荒地が畑へ戻る最初の日を見た人間は、次の一手を信じやすくなる。
日暮れ、夕焼け色の水路を見ながら、カナンが小さく笑った。
「剣振るより拍手されてるな、お前」
「そっちはお前の役目だろ」
「じゃあ私は、お前が直した場所を守る」
軽い口調だったのに、不思議と冗談には聞こえなかった。
湊は少しだけ黙り、それから流れる水へ目を戻した。
辺境伯領の再建は、確かに目に見える形になり始めていた。
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