第58話 帰還の条件
帰ると決めた以上、次に必要なのは気合いじゃなかった。
扉だ。
蔵の境界扉は、今のところ“通れるときに通れる”程度の応急状態にすぎない。
あの時、湊が戻れたのも、向こう側の鍵板とカナンの足止めが噛み合ったからだ。
安定して往復できるわけではない。
「つまり?」
カナンが訊く。
「帰還は一回の大勝負になる」
蔵の扉を開け、木目へ触れる。
視ると、流路はまだところどころ痩せていた。
祖父が最後まで手を入れ続けていた理由がよく分かる。
この扉はただの通路じゃない。
世界と世界の圧を受け止める緩衝材だ。
まずは扉の補修。
古い真鍮留め具を磨き、銀杭を差し込み、祖父の図面にあった順番で流れを組み直す。
「現代の工具、便利すぎるな」
「それは知ってる」
とカナン。
「いや、向こうだと一日がかりの芯出しが三十分だから」
「悔しい」
補修と並行して、持ち込める物の試験も始めた。
木材、金具、ロープ、手工具、乾電池、LEDライト、簡易浄水フィルター、接着剤。
小さい物を一つずつ扉の向こうへ通して、戻して、状態を確認する。
結果はかなりはっきりしていた。
金属工具と手動道具は強い。
木材や布も問題ない。
だが電子制御の精密機器は怪しい。
向こうへ渡った時点で反応が鈍ったり、動作が不安定になったりする。
「スマホが万能じゃない理由、これか」
「便利な光る板も弱るなら、あっちで頼り切るのは危険だな」
「うん。だから持っていくのは“機能”じゃなくて“考え方”寄り」
さらに問題だったのは量だった。
物を多く積みすぎると、扉の紋がすぐに濁る。
圧が揺らぎ、木目の奥で細いひびが光る。
「大量輸送は無理」
「では選べ」
カナンの言葉は簡単だ。
でも、その通りだった。
全部は持ち込めない。
なら、本当に必要なものだけ選ぶしかない。
湊は床へ持込候補を並べた。
標準寸法の見本。
加工済みの要部品。
異世界代替材へ置き換えるための基準工具。
試作用の樹脂部品。
図面。
手記の写し。
祖父の工具箱。
「結局、設計図が一番重い」
「紙なのにか」
「中身がね」
作業机の端で、自分のスマホが何度も震えた。
現場仲間と取引先からの着信履歴だ。『しばらく地方で動けない』『案件は全部止めてください』と断り続けているが、さすがに無理がある。
日本側の生活も、もう曖昧なままでは持たない。
夜までかけて選別し、最後に一つだけ、どうしても迷う物があった。
小型のLEDライトだ。
向こうでも短時間なら使える。
でも電源は不安定。
壊れたらただのゴミになる。
「いる?」
とカナン。
「……いや、数本だけにする」
便利な物に頼りすぎると、現地で再現できない。
それは今回の反撃方針と逆だ。
必要なのは、向こうで増やせるもの。
持ち込むのはその起点だけでいい。
補修を終えた蔵の扉へ、最後に旧鍵板をはめる。
青い紋が安定して走った。
以前のような滲み方ではない。
細いが、芯の通った光だ。
「どうだ」
カナンが訊く。
「帰れる」
「戻れる、じゃなくて?」
湊は少しだけ笑った。
「今回は、ちゃんと帰る」
負けて逃げ込むためじゃない。
向こうの国へ勝ち筋を持って戻るためだ。
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