第37話 商会長の帳簿
翌朝、祖父のスマホが短く震えた。
召喚されてから、このスマホはほとんど沈黙していた。
たまにアプリのアイコンが薄く光るくらいで、向こう側にいるリゼリアとは、いま王城で顔を合わせている。
文字でやり取りする必要もなかった。
だから、振動そのものが久しぶりだった。
通知欄に出ていたのは、見覚えのない灰色の表示だった。
『送信待ちメッセージを復元しました』
差出人の欄には、相沢源蔵。
宛先には、リゼリア・ルーメリア。
湊は息を止めて画面を開いた。
『リゼリア殿。もし湊がそちらへ来たなら、最初に疑え。うまく揃いすぎた証拠を――』
文はそこで途切れていた。
続きは灰色に滲んで、読めない。
「じいちゃん、こういうところで切るなよ」
ぼやいても、スマホは何も答えなかった。
ベルク商会への調査は、正面からでは通らなかった。
「帳簿はすべて揃っております」
「検査も問題なく通過しております」
「王家に対して、これ以上の疑いは心外ですな」
商会長は見事なくらいの笑顔でそう言った。
差し出された帳簿も、当然のように整っている。
整いすぎている。
執務室を出たあと、湊は廊下でぼそりと呟いた。
「絶対、裏ある」
「同感です」
とリゼリア。
「ですが、正規権限で開けられるのは表帳簿まででしょう」
「なら、裏から見るしかないな」
その夜。
ベルク商会の裏手倉庫には、月明かりも届きにくかった。
潜るのは湊とカナン。
リゼリアは王城側で、万一に備えて正式な照会書を動かしておく役を引き受けた。
「本当に二人で行かせるの、怖くない?」
と湊が出発前に言うと、
「あなたが行くと言って止まると思いますか」
と返された。
それはそう。
倉庫の外壁は高いが、荷の出入り用に設けられた脇戸は思ったより簡素だった。
鍵自体は普通。
だが、扉の蝶番の削れ方と地面の轍が、表の倉庫だけでは説明できない頻度を示している。
「夜の出入り、多いな」
「見張りは二人」
カナンが低く言う。
「右は寝そう。左は真面目」
「真面目な方やだな」
「黙れ」
数分後、二人は中にいた。
カナンは寝かけていた見張りの口を後ろから塞ぎ、そのまま首筋へ肘を入れて音もなく沈めた。
真面目な方の見張りも、振り向いた瞬間には柄頭で意識を刈られていた。
湊は積まれた箱の配置を見る。
帳簿上では塩と織物の倉庫。
だが床の擦れ方が変だった。
表の荷動線とは別に、重いものが何度も同じ場所を通っている。
「この下だ」
「床板か?」
「いや、床ごと」
舞台装置をいじってきた勘が働く。
重さの逃がし方、板の鳴り、柱の荷重。
見せかけの倉庫の奥に、もう一つ空間がある。
箱をどかし、床板の隙間へ薄刃を差し込む。
すると、一枚だけ木目の向きが違う板が浮いた。
「当たり」
下には狭い階段が隠れていた。
地下倉庫は、上よりずっと整っていた。
ここにあるのは“見せてもいい荷”ではない。
軍用の革帯、未申告の薬品、王都防衛軍向けと記された木箱、そして鍵付きの棚。
「うわ、分かりやす」
「喋るな」
棚を開けると、そこにあったのは二冊の厚い帳簿だった。
同じ月、同じ荷、同じ日付。
だが金額が違う。
「二重帳簿だ」
湊は床へ帳簿を広げる。
表に出す用と、実際の動き用。
さらに後者には、貴族の印章と見慣れない外国名が並んでいた。
「これ、国外商人の名前か?」
カナンが覗き込み、眉をひそめる。
「北の発音だな。グランゼル寄りの」
「やっぱそっちか」
ページをめくるたび、出てくる単語が重くなる。
鉄材、薬包、軍糧、予備結界石。
ただの商人の横流しでは済まない。
さらに帳簿の末尾には、見覚えのある印があった。
ガルド派として知られる貴族の家印だ。
一見、証拠としては十分すぎた。
だからこそ、湊の指が止まる。
「……揃いすぎてる」
「何がだ」
カナンが訊く。
「二重帳簿って、もっと汚い。書き癖とか、消した跡とか、隠し方の迷いが残る。これは綺麗すぎる」
リゼリアへ持ち帰れば、疑いをかける材料にはなる。
だが、祖父の未送信メッセージの一文が、頭の隅で引っかかっていた。
うまく揃いすぎた証拠。
「持って帰る」
「片方じゃ駄目か」
カナンが言う。
「片方だと“偽物”って言われる。両方要る」
そのとき、上で物音がした。
誰かが見張りの異変に気づいたらしい。
足音が近づく。
「時間切れだ」
帳簿を抱え、棚の中にあった印章の控え板も一枚だけ懐へ入れる。
階段を駆け上がった瞬間、倉庫の奥扉が開いた。
「誰だ!」
「こんばんは」
挨拶だけして、湊は全力で走った。
次の瞬間にはカナンが前へ出て、追ってきた男の槍を弾き飛ばしている。
狭い倉庫内では大剣は不利そうに見えたが、彼女は柄と足運びだけで十分だった。
「行け!」
言われるまでもなく、湊は脇戸へ向かう。
外へ出たときには、帳簿の重みがやけに現実的だった。
裏路地を二人で駆け抜け、追手を振り切ったあと、ようやく息を吐く。
「いや、潜入って毎回こうなの?」
「お前が余計な物まで持つからだ」
「でも持ってきた方がいいやつだった」
帳簿を抱え直す。
月明かりの下でも分かる。
これはただの不正の記録じゃない。
王都の物流と軍需の血管が、どこへ繋がっているかを示す図面だ。
そのページの一つには、国外商人の名と並んで、青い鷹の小さな印が添えられていた。
それは手がかりだった。
同時に、誰かがわざと残した誘い札のようにも見えた。
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