第36話 王女の手を取る夜
第二王子の宴を辞したあと、三人は北棟から王女区画へ向かう石廊下を歩いていた。
夜の王城は静かだ。
昼間の喧騒も、宴の笑い声も届かない。
照明石の淡い光だけが、長い影を床へ落としている。
先を歩いていたカナンが、ふと立ち止まった。
「私は前を見てくる」
「急に?」
と湊。
「護衛だ」
それだけ言って、彼女は少し先へ歩幅を速めた。
露骨ではない。
けれど、二人きりにするつもりなのは分かった。
残された沈黙の中で、リゼリアが小さく息を吐く。
「疲れた?」
湊が訊く。
「はい。かなり」
返事は少しも迷わなかった。
王女らしく取り繕う余裕もなかったらしい。
「さっきまで、めちゃくちゃ平然としてたのに」
「平然としていないと、向こうが喜びます」
その言葉に、苦笑しか出ない。
たしかにガルドの前で隙を見せるのはよくないのだろう。
でも、それをずっと続けるのはしんどいに決まっている。
リゼリアは少しだけ歩幅を緩めた。
「兄上の宴は、いつもああです」
「息が詰まりそうだった」
「ええ。だから、正しい感想です」
その返事のあと、しばらく沈黙が続いた。
靴音だけが石床へ響く。
やがて、リゼリアが前を見たまま言った。
「……偽でも」
「うん?」
「あなたが隣にいると、少し楽です」
足が一瞬止まりかけた。
リゼリアは続ける。
「変な意味ではなく」
「いや、うん」
「兄上も、他の貴族たちも、わたくしを“王女”として見ます。役目、値打ち、婚姻、家。そういうもので」
「まあ、そうだろうね」
「ですが、あなたは壊れた穀倉とか、歪んだ橋とか、わたくしの疲れた顔とか、そういうものばかり見てくるので」
「最後のは別に見ようとしてるわけじゃ」
「だから、少し楽なのです」
困る。
そんな言い方をされたら、困る。
湊は答えを探した。
でも、うまい言葉は出てこなかった。
工式の流れなら一瞬で読めるのに、人の気持ち絡みになると途端に精度が落ちる。
「俺も」
絞り出したのは、その二文字だった。
「俺も、ここ来てから、人とか立場とか、正直ずっと分かんないことだらけだけど」
リゼリアがこちらを見る。
「隣にいるのがあんたでよかった、とは思ってる」
王女としてではなく、リゼリアとして。
そう続けるのは気恥ずかしくて、声には出せなかった。
それでも、意味は届いたらしい。
彼女はほんの少しだけ目を見開き、それから柔らかく細めた。
ちょうどそのとき、リゼリアの靴先が床の継ぎ目に引っかかった。
「危な」
反射で、湊はリゼリアの手を取っていた。
白い手袋越しの細い指。
思っていたより冷たい。
「すみません」
リゼリアが小さく言う。
「いや、こっちこそ」
離そうと思えば離せた。
でも、なぜかそのまま手を離せなかった。
リゼリアも、解こうとしない。
少し先を歩くカナンが、一度だけ振り返る。
そして何も言わず、また前へ向き直った。
廊下の終わり、王女区画の扉が見えるまで、二人は手を繋いだまま歩いた。
偽恋人としてなら、たぶんおかしくない。
でも、さっきの会話のあとだと、それだけでは済まない気がする。
扉の前で、ようやくリゼリアが立ち止まる。
「ありがとうございます」
「……どういたしまして」
「今日は、宴へ来てくれて助かりました」
「あんたが行くなら行くよ。今さらだけど」
その答えに、彼女はふっと笑った。
画面越しでも、執務中でもない、いちばん柔らかい笑い方だった。
「では、また明日」
手が離れる。
冷たさが消えたぶんだけ、妙に名残が残った。
部屋へ入っていくリゼリアを見送ってから、湊は小さく息を吐く。
少し離れた柱の陰で待っていたカナンが、じろりとこちらを見た。
「随分、ゆっくり帰ってきたな」
「護衛が前行ったからでしょ」
「知らない」
知らない顔で言うには、少しだけ不機嫌そうだった。
カナンは、それ以上を言葉にしなかった。
振り返った一瞬、彼女の目が少しだけ揺れた気がした。
けれど次にはもう、いつもの護衛の顔へ戻っている。
湊は、気のせいかもしれないと思うことにした。
思わず笑う。
王城の夜は冷たい。
けれど、その夜の帰り道だけは、不思議と少しだけ息がしやすかった。
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