第143話 三十年の喧嘩
その晩、カンラッドの家の土間で、四人は同じ鍋を囲んだ。
言い出したのはカナンだ。
保留の決着を付ける、と。
男は断らなかった。
断らないまま、隅の席で黙々と椀を空けた。
鍋はカナンの獲った山鳥と、町の芋だった。
男は味について何も言わず、三杯食べた。
「三杯は、うまいってことだ」
カナンが小声で判定を下した。
「昔の話を聞かせてくれ」
椀が二巡したところで、湊は切り出した。
「じいさんと、あんたと——あの写真を撮った、もう一人の話を」
男の匙が、椀の縁で小さく鳴った。
長い沈黙のあと、男は火を見ながら話し始めた。
問いに答えるというより、古い封を一目ずつ解くような話し方だった。
「番人には、三つの役目があった」
繋ぐ者。
逸らす者。
閉じる者。
「三つで一つだ。だが、いつ、どの座に誰がおったかは——今は話さん」
「春に雪解けの緩みを締め、秋に冬支度の締めをして回る。峠で年を越した年もある。それだけの暮らしだ」
「それだけ、って歳月じゃないだろ」
「長くやれば、それだけになる」
「楽しかったか」
カナンが火を突きながら聞いた。
子どもみたいな問いだった。
老人は虚を突かれた顔をし、それから存外まじめに考えた。
「……悪くは、なかった」
昔の暮らしへの言葉としては、たぶん最上級だった。
道標を彫り直した宿場。
崩れる前の、東の肩の中継地。
観測塔を建てた年の、記録的な大雪。
男の話には、地名と仕事しか出てこない。
なのにその全部に、湊たちが歩いてきた道が重なった。
「じいさんは、あんたを何て呼んでた」
「……儂は、ティンダールと呼べと言った。それで十分だ」
「なら俺も、そう呼ぶ」
「勝手にしろ」
ティンダールは椀を置き、腰の鏝を外して、布で手入れを始めた。
話しながら手を遊ばせない。
祖父と同じ癖だった。
「相沢は、腕の立つ繋ぎ手だった。膜の向こうの気配を読むことにかけて、あれの右に出る者はおらん」
「けんかしたのか」
カナンが直球を投げた。
鏝を拭く手が、少しだけ強くなる。
「あれは、糸を残すと言い出した」
「糸?」
「向こうとこちらを常に繋いでおく、細い糸だ。呼べば届き、応えれば繋がる仕組み。……壊れかけた膜に、わざわざ穴の種を仕込むと言い出した」
救難接続。
湊の懐で、遺品スマホがわずかに重みを増した気がした。
呼べば届き、応えれば繋がる。
マッチングアプリの画面が、老人の言葉と頭の中で重なる。
祖父の作ったあの仕組みの根は、この山の口論の中にあったのだ。
「儂は反対した。境界の傷を増やす裏切りだと言った。あれは、助けを求める声を置き去りにする方が裏切りだと言った」
「……それで」
「三十年、口を利いとらん」
火が爆ぜた。
「どっちも、間違ってないな」
カナンがぽつりと言った。
「だから長引いたんだろ。どっちかが間違ってれば、もっと早く済む」
「女剣士。お前は、どっちに付く」
「付かない。私は迷子を拾う側だ」
「……迷子」
「困って呼んだ奴のところへ行くのが冒険者の商売だ。だからまあ、強いて言えば」
カナンは湊を親指で指した。
「糸の側だな」
ティンダールは何も言わなかった。
否定しないことが、この男の肯定らしかった。
カンラッドは口を挟まず、ただ火の番をしていた。
三年前から、事情も聞かず、来るたびに旅人に寝床を貸してきた男の座り方だった。
「その糸は、生きてた」
湊は静かに言った。
「じいさんの糸に、俺は呼ばれた。王女の救難信号を受けて、この世界へ来た。あんたの言う穴の種は——少なくとも一人の王女と、一つの国を救ってる」
ティンダールの手が、止まった。
「……そうか。あの糸が、お前を」
「ああ」
「相沢め」
吐き捨てるような声に、憎しみはなかった。
長年の悔しさと、それと同じ量の何かが、短い一言に詰まっていた。
土間が静かになる。
カンラッドが新しい薪をくべ、火の粉が上がった。
聞くなら、今しかない。
「なあ、ティンダール」
湊は火の向こうの男を見た。
「写真を撮った、もう一人はどうなった」
鏝を拭く布が、止まった。
今度は、匙が鳴った時とは違う。
手そのものが、時間ごと止まっていた。
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