第142話 直す者と閉じる者
広間の隅で、カンラッドが黙って湯を沸かし始めた。
長話になると踏んだらしい。
老代官の勘は、正しかった。
「まず、礼を言わせてくれ」
湊は頭を下げた。
「峠の道標。橋の踏板。中継地の封。あんたの仕事に、道中ずっと助けられた」
男は答えなかった。
ただ、湯を沸かすカンラッドの手元へ「濃くするな」とだけ言った。
礼の受け取り方を、本当に知らないらしい。
「あんたの封は、見事だと思う」
湊は正直に言った。
「中継地の封も、観測塔の封も、この壁も。三十年、危険な緩みを一つも残していない。職人として、文句のつけようがない」
「世辞は要らん」
「世辞じゃない。そのうえで、聞きたい」
湊は壁の表層を指した。
「なんで全部、閉じる一方なんだ。境界の向こうで圧が溜まってるのは、あんたが一番よく知ってるはずだ。観測塔の針、半年で八回も振り切れてる」
男の目が、わずかに動いた。
「閉じて、閉じて、閉じ続けて——それで、いつまで保つ」
「保たせる。それが番の仕事だ」
「溜まった水は、いつか堰を越える」
「越えさせん」
「越えたら?」
「儂が死んだ後の話だ」
軽口の形をしていたが、軽口ではなかった。
この男の勘定には、最初から「自分の死後」が入っていない。
入れられないのだ。
代わりの番人が、どこにもいないから。
会話が、噛み合わない。
正確には、噛み合う場所の手前で、意図的に切られている。
「境界は、世界の傷だ」
男は鏝の柄へ手を置いた。
「傷は塞ぐ。膿んでも、疼いても、塞いだまま保たせる。開いて良いことなど、何一つない」
「塞いだ傷の下で、腐るものもある」
湊も退かなかった。
「うちの国の水利盤も、転移炉も、南河の水門も、全部そうだった。現場の壊れ方より、触る権限の方を優先した場所から、順番に腐っていった。俺は、それを直して回ってきたんだ」
「国の設備と境界を、同じ物差しで語るな」
「物差しは同じだ。壊れ方を読んで、流れを整えて、使えるように直す。相手が水門でも、境界でも」
「南河の水門の話は、山にも届いてる」
「なら早い。四年間、閉じても開けても村が死ぬ盤があった。悪いのは盤じゃない、繋ぎ方だった。……境界も同じじゃないのか。閉じるか開けるかの二択にした時点で、もう詰んでる」
男は答えず、湯呑みの湯気を見ていた。
沈黙が、「考える沈黙」に変わった。
「使う、だと」
男の声が、低く沈んだ。
「境界を使うと言い出した者から、境界は壊れていく。帝国も、王家も、商人も——そして、お前の祖父もだ」
祖父。
その一語だけ、男の発音が違った。
敵の名でも、他人の名でもない。
長く使い込んで、手放せなくなった道具の名を呼ぶ響きだった。
「じいさんの手記を読んだ。あんたと回った山の記録も、消された名前があることも」
「……どこまで読んだ」
「読める場所は全部。読めない場所の方が、まだ多い」
「なら、まだ何も読んどらん」
突き放す言い方の奥で、男は明らかに、手記の続きを気にしていた。
「じいさんと、何があった」
「話すことはない」
「手紙にもそう書いてあったな。裏に図面を付けて」
男は一瞬黙り、それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「読めたか」
「三日かけて。第一層と第二層の理屈は分かった。最深部は、書いてあることの半分も分からない」
「半分読めれば上等だ」
それは、この男の口から出た最初の、世辞ではない評価だった。
「聞き方を変える」
湊は図面を指した。
「最深部の封が読めないのは、俺の腕のせいか。それとも、読ませない作りのせいか」
「両方だ」
即答だった。
「だが、いい問いだ。読めん理由を二つに分けられる奴は、まず自分の腕を疑える」
カンラッドが湯呑みを三つ、無言で岩の上へ置く。
男は湯を一口すすり、思い出したように付け足した。
「女剣士。お前は何も聞かんのだな」
「技術の話は分からん。分かるのは、あんたが敵かどうかだけだ」
「で、どっちだ」
「保留だ。飯を一緒に食ってから決める」
男の眉が、ほんのわずかに動いた。
笑いかけて、やめたような動き方だった。
男は湯呑みを置き、壁の図面を広げる湊の手元を、横目で長いこと見ていた。
「器用な応急処置だ、お前の直しは」
「応急処置で悪かったな」
「悪いとは言っとらん」
視線は、図面から離れない。
「……お前の祖父も、最初はお前のような顔をしていた」
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