第141話 封鎖の男
王都への帰路は、北西鉱山を通る。
そう決めたのは湊だった。
「宿題を貰ったんだ。答え合わせは、実物の前でやる」
「王都には何て言う」
「寄り道を一つ、って」
夜の定時通話で、リゼリアは短い沈黙のあと言った。
『寄り道の間、王都の言い訳はこちらで持ちます。そのかわり、収穫は全部持って帰ってください』
「はい」
『全部、です。怪我も隠さないこと』
王女の「全部」は、いつも範囲が広い。
手紙の裏の図面。
三重封印の第一層、第二層、最深部。
読めるものなら読んでみろと言うのなら、図面と本物を突き合わせるのが職人の礼儀だ。
山小屋を出てから三日、休憩のたびに図面を広げ、線を追ってきた。
鉱山町に着くと、カンラッドが坑口で待っていた。
「戻ると思っとった」
「どうして」
「旅人が、昨日から下におる」
老代官は、それだけ言って灯りを寄越した。
「三年前と、同じ様子か」
「同じだ。挨拶もなしに来て、下で仕事をしとる」
カンラッドは坑口の闇を見た。
「……ただな、今度のは待っとる背中だ。ありゃあ」
三年、この山で「継ぐ者」を待った男の言葉だった。
坑道を下りる足が、自然と速くなる。
封印壁の前の広間に、その男はいた。
写真より、ずっと老いていた。
だが背は曲がっていない。
灰色の髪を短く刈り、岩のような手に、あの焼き印鏝を提げている。
背の高い、笑わない男。
山の職人様。
ティンダールの銘の主。
男は振り返りもしなかった。
挨拶もない。
名乗りもない。
カンラッドが小さく頭を下げ、男の背へ声を掛けた。
「旅人様。連れてきた」
「見れば分かる」
取り付く島もない。
だがカンラッドは怒るでもなく、慣れた足取りで広間の隅へ下がった。
三年前から、ずっとこの調子なのだろう。
代わりに、壁の表層——湊が血で開けた細い扉の縁へ、鏝を静かに当てた。
「見ておれ」
低い声だった。
鏝の先の輪が、淡く熱を持つ。
男は工式の編み目を一本ずつ拾い、緩んだ目を締め、伸びた目を戻し、湊が開けた扉の縁を、開けられる余地を残したまま整えていく。
湊は息を忘れた。
《工式解析》で読むより速く、正確に、男の手は工式の「緩み」だけを見つけていく。
道具と手と目だけで、解析工程を丸ごと省略している。
数十年、これだけをやってきた人間の手際だった。
悔しさより先に、見蕩れた。
職人の世界には、その手を見ただけで格の分かる仕事がある。
ドンの鎚。
祖父の墨壺。
そして、この男の鏝。
隣のカナンさえ、剣士の目で男の体捌きを追っていた。
「……足運びが、剣士だな」
小声で言う。
「山歩きだけの足じゃない。あれは、間合いを知ってる足だ」
締め終わると、男は中層の縁へ移った。
流れを逸らす層。
湊には入口さえ見えなかった第二層の外縁を、男は「読まずに」整える。
「編み目は読むものじゃない。触れて、応えを聞くものだ」
独り言のようで、明らかに湊へ向けた言葉だった。
「あんたが——」
「喋るな。手元が濁る」
ぴしゃりと遮られる。
カナンが横で、笑いを噛み殺す気配がした。
作業は、半刻続いた。
男は最後に壁全体へ掌を当て、応えを聞くように目を閉じ、それから初めて湊たちへ向き直った。
近くで見る顔は、岩というより、風雪に磨かれた木肌に似ていた。
深い皺。
落ち窪んだ目。
その目だけが、異様に若い。
歳は、祖父が生きていれば同じくらいか。
だが目の奥の火だけが、まだ現役の職人のものだった。
「小僧」
「……相沢湊だ」
「知っとる」
知っている。
当然だ。
峠の足跡も、観測塔の置き文も、山小屋の手紙も、全部この男だった。
「あんたの名前は」
「要らん」
「呼びにくい」
「呼ぶ用を作るな」
男は鏝を腰へ差した。
「お前が血で開けた扉だ。締め直しに、儂は三日使った」
「中継地の銘板の、二か月前の日付もあんたか」
「他に誰がおる」
中継地の封も、この壁も。
湊たちの旅は最初から、この男の仕事の上を歩いてきたのだ。
「悪かったとは思ってる。でも、開けなきゃ分からないことがあった」
「開けて分かることなど、境界には一つもない」
男は壁を顎で示した。
「見たか。これが境界の正しい扱いだ。——開けることではない」
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