第135話 消えた旅路
峠の雪は、カナンの読みどおり五日で緩んだ。
宿場で合流した湊は、印画紙の裏の短い一文を報告し、それからカナンの集めた話を聞いた。
「猟師たちが山中で見たのは、この二十年で数えるほどだ。ただし場所は全部、お前の地図の線の上に乗る」
「巡回路か」
「それと、もう一つ。話を聞いた誰もが口を揃えた。『谷の集落だけは、あの人の話を悪く言うな』と」
谷の集落。
巡回路の中間、破られた頁の区間だ。
出発の前に、湊はもう一度手記の複写を広げた。
破られた頁の、ちぎれ際。
今までは、祖父自身が処分したのだと思い込んでいた。
「破り方が、雑なんだ」
綴じ糸の際から、繊維ごと引きちぎってある。
道標の符号ひとつにも癖を残す祖父の仕事ではない。
「別の誰かが、後から破った」
「読まれたくなかった誰か、か」
「あるいは——読ませたくない頁だけ、預かった誰かだ」
「預ける、ね」
カナンが顎を撫でた。
「手記ごと隠せばいいものを、頁だけ破って持ち出す。……中身より、渡した相手の方に意味がある気がするな」
谷へは、昼過ぎに着いた。
崩れやすい頁岩の斜面に、木橋が三本。
どれも古いが、踏板だけが新しい。
橋の袂の道標には、例の符号と、点が一つ。
「ここも直されてる」
谷の入口では、スマホの二つ目の点も確かめた。
古い関所跡に、小ぶりな封がひとつ。
中継地というより、道そのものへ掛けた閂のような封で、緩みはなかった。
谷底の集落は、二十戸ほどの小ささだった。
旅人が珍しいのだろう、畑の手が次々に止まる。
だが警戒の色は薄い。
カナンが道中で仕留めた山鳥を三羽、手土産に提げていたせいかもしれない。
村長の家で湯を貰い、湊は率直に切り出した。
「山を独りで歩く、背の高い職人を捜してます」
村長の老人は、湯気の向こうで目を細めた。
「……山の職人様の、お知り合いかね」
様、が付いた。
「二十年前のことだ」
老人は囲炉裏の火を見ながら、ゆっくり話した。
「秋の長雨で、上の斜面がいっぺんに来た。夜だ。何も見えん。土と岩の音だけが、家の裏まで迫っとった」
村人は寺堂へ集まり、朝を待つしかなかった。
「その晩じゅう、山側で青白い火が見えとった。雷とも違う。朝になったら、崩れは村の手前でぴたりと止まっとって——裂け目が、あった」
「裂け目?」
「地面の裂け目とは違う。空気が裂けとった、としか言いようがない。爺様たちは、山の傷と呼んどった」
湊とカナンは目を見交わした。
土砂が止まったのは、偶然ではない。
崩れの奥で開きかけた境界の裂け目を、誰かが一晩かけて閉じたのだ。
その作業が土砂の流れまでせき止め、村を救ったのだ。
「朝方、男が一人、山から降りてきた。焼けた鏝を提げて、左腕は袖ごと真っ黒に焦げとった」
村は男を医者へ運ぼうとし、男は断り、寺堂の隅で三日眠って、山へ帰ったという。
「わしはまだ子どもだったが、覚えとる。眠っとる間じゅう、あの人は鏝だけは離さんかった」
「礼は、させてくれたんですか」
「受け取らん。米も銭も、置いていけば置いた分だけ、翌朝には戸口へ返っとった」
「頑固だな」
カナンが半ば感心して言う。
「頑固なもんかね」
老人は首を振った。
「あれはたぶん、借りの作り方を忘れた人の顔よ」
「それが、山の職人様ですか」
「そうだ。以来、夏の祭りと年の暮れには、裏の斜面へ酒と塩を置く。取りに来たことは一度もないがな」
それでも置き続ける。
二十年。
この谷の暮らしの中に、男はずっといた。
姿の見えない隣人として。
湊は懐の写真を出し、老人へ見せた。
「若い頃の、この右の男でしょうか」
老人は写真を受け取り、長いこと見つめた。
囲炉裏の火が、二度爆ぜた。
「……面影は、ある」
写真を返しながら、老人は少しだけ声を落とした。
「だが、あんた。この写真の男は、笑っとらんだけで、笑えん顔じゃない。今の職人様は、違う」
「違う、というと」
「あの夜からこっち、村の誰も、あの人が笑ったところを見とらんのだ」
二十年前の、山崩れの夜。
たった独りで山の傷を閉じ、腕を焼き、村を救った男は。
その夜を境に、笑うことをやめていた。
帰り際、村長は湊たちを呼び止め、奥から古びた木箱を抱えてきた。
「山へ行くなら、これを見ていくといい」
箱の中身は、煤けた一枚の古地図だった。
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