第134話 祖父の足跡
足跡は、尾根の岩場で消えていた。
追う判断はしなかった。
その日の夕方から山が荒れ、峠の上は初雪になったからだ。
「この雪なら、五日は峠を使えないな」
宿場へ引き返す道すがら、カナンが空を読んだ。
「山の雪は待ってくれん。焦って登る奴から死ぬ」
「なら、その五日で確かめたいことがある」
湊は懐の写真を出した。
「この写真が、どこで焼かれたのか」
「本降りになる前に、王都まで降りられるか」
「俺一人なら。カナンは宿場に残ってくれ。山の話は、余所者二人より一人の方が集まる」
役割は自然に決まった。
こういう段取りで、この人と揉めたことは一度もない。
翌朝、湊は単騎で王都へ引き返した。
カナンは宿場に残り、石工と猟師から山の話を集める役だ。
丸二日かけて王都へ戻り、王城地下から蔵の扉をくぐると——日本は、雨だった。
障子越しの灰色の光。
遠くで濡れた道路を走る車の音。
昨日まで雪の山にいた体に、畳の匂いが妙に柔らかい。
まず、書類箱を開けた。
祖父のパスポートは、ない。
そもそも作った形跡がない。
古い手帳や葉書を辿っても、県外への旅の記録さえほとんどなかった。
書類の上では、祖父は日本から一歩も出たことのない人間だった。
念のため、古い写真帳もめくった。
若い頃の祖父の写真は、数えるほどしかない。
どれも日本の風景で、あの高い襟の男は一枚も写っていなかった。
祖父は二つの人生を、紙の上で完全に分けて生きていた。
なのに、あの写真がある。
写真を窓の光へ透かす。
印画紙の厚み。
表面の光沢のむら。
祖父が遺した他の写真——湊の七五三や、工房の落成——と並べると、質感がまるで違う。
裏面に銘はなく、メーカーの透かしもない。
少なくとも、祖父が日本で使っていた印画紙とは違う。
二冊目の手記を開き直すと、写真が挟まっていた頁の綴じ糸の下に、短いフィルムがもう一本潜り込んでいた。
缶も銘もなく、透過光へかざしても像の有無すら分からない。処方の分からない乳剤は、普通の現像液へ入れれば像ごと流れる。
湊は新しい遮光封筒へ入れ、工房の保留台帳に『処方不明・無銘フィルム、開封及び現像保留』と一行記した。
「向こうで焼いたのか……」
あちらの世界に、写真の技術はないはずだ。
だが、三つの台座のあの部屋に「写す何か」があったなら。
祖父はあちらで撮り、あちらで焼き、日本へ持ち帰ったことになる。
写真の男は、向こう側で生きる人間。
山を独りで歩く、あの足跡の主だ。
昼、留守番電話の残りを片づけた。
一件は、母からだった。
『生きてるなら、たまには顔くらい見せなさい。お父さんが、蔵の修理は終わったのかって』
近いうちに、と返信を打つ。
近いうち、が何度目になるのかは、数えないことにした。
例の展示設備の補修相談には、日程を確認しますと返したきりになっていた。
これ以上は延ばせない。
午後いっぱいを使い、市内の小さな資料館で展示台を直した。
がたつきの原因は脚ではなく、床の不陸だった。
薄い敷板を一枚仕込んで水平を出すと、館長の老婦人は何度も頭を下げた。
「相沢さんのお祖父様にも、昔ずいぶん助けていただいて」
「祖父も、ここへ?」
「ええ。妙なことをおっしゃる方でしたよ。『展示ってのは、遠くの誰かへ物を繋ぐ仕事だ』って」
繋ぐ。
祖父は日本でも、同じ言葉で生きていた。
「今度、うちの収蔵庫の棚も見てくださらない?」
「ええ。来月あたりに」
約束を一つ増やして、資料館を出た。
祖父の残した縁は、道標と同じだ。
辿れば、ちゃんと次へ続いている。
帰り道、湊は濡れた商店街を歩きながら考えた。
こちらには、待ってくれている仕事と人がいる。
あちらにも、いる。
どちらも本物で、どちらも捨てられない。
体は一つで、峠の雪は五日で緩む。
「……器用に生きてたんだな、爺さんは」
それとも、器用に見せていただけか。
夕方、仕事用スマホが鳴った。
後輩職人の直人からの、納期の相談だった。
五分で済む用件を、十分かけて話す。
声の調子で、互いの近況を測り合う。
こちらの暮らしの糸も、まだ切れてはいない。
蔵へ戻り、写真を仕舞おうとした時だった。
指先が、印画紙の裏の微かな凹凸に触れた。
灯りを斜めから当てる。
鉛筆の跡。
筆圧だけが残り、芯の粉は年月で飛んでいる。
祖父の字ではない。
角張った、力の強い筆跡だった。
『三で一つ。欠けて久しい』
三で一つ。
三つの台座。
三つの符号。
写真の外へ切れていた、三つ目の席。
そして——欠けて久しい。
祖父の字で消されず、破られもせず、写真と一緒に仕舞われていた短い一文。
祖父はこの一行を、読んでいたはずだ。
読んで、消さずに、残した。
書いた誰かは、三人のうちの誰かがいなくなった後で、この一行を写真の裏へ刻んだのだ。
雨音の中で、湊は長いこと、その一文を見つめていた。
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