第132話 古道の符号
北回りの街道は、二日目から石畳が切れた。
轍の浅い土の道。
使う者が減って久しいのに、崩れてはいない。
路肩の石積みが、要所だけ几帳面に直されているからだ。
「この積み直し、新しいな」
湊は馬を止めた。
苔の色が、そこだけ浅い。
「街道番でもいるのか」
「この道に予算は付いてない。王都の台帳では、とっくに廃道扱いだ」
誰かが、金にもならない道を直している。
最初の道標は、峠の入口にあった。
膝の高さの石柱。
上面に方角、側面に距離。
そして裏側に、見慣れない刻みがあった。
二重円に、三本の斜線。
手記の符号——封の形。
ただし線の閉じ方が少し崩してあり、下に小さな点が二つ打たれている。
「点が二つ」
「次の道標まで、分かれ道が二つって意味かもしれない」
試しに進むと、そのとおりだった。
分岐のたびに正しい側の道標へ同じ符号があり、点の数が減っていく。
符号は封の印であると同時に、順路を示す道しるべだった。
「しかし、妙だな」
カナンが道標を撫でる。
「隠したいなら、彫らなきゃいい。読める奴にだけ読める道しるべなんて、誰のために残す」
「後継ぎのため、だと思う」
自分が倒れたあと、次にこの網を歩く誰かのため。
職人は、仕事の順路を道具と現場に残す。
それは湊自身が、毎日やっていることでもあった。
湊は帳面へ符号を写し取った。
封の基本形からの崩し方に、癖がある。
力の逃がし方が、手記の図とまるで同じだ。
「設計は祖父の型だ。でも、彫った手は別人」
設計と施工。
二人一組の仕事の跡が、道端の石にまで残っている。
夕方、峠下の宿場へ入った。
宿場といっても、宿と鍛冶と石工が一軒ずつ。
その石工の作業場の前で、湊は足を止めた。
軒先に積まれた道標の予備石。
その一本に、あの符号が彫りかけで残っていた。
「珍しいかね」
奥から出てきたのは、腰の曲がった老石工だった。
「彫ったのは、あんたか」
「注文どおりに彫っただけさ。意味は知らん」
老人は湯呑みを二つ持ってきて、勝手に話し始めた。
山暮らしの職人は、客より話し相手に飢えている。
「三十年前だ。妙な二人連れが来てな。古い道標を全部彫り直すから、型どおりに頼むと」
「二人連れ」
「一人は、あんたによく似た顔立ちの無愛想な職人。腕は確かだった。わしの鑿の癖を、一目で言い当てよった」
祖父だ。
湊は湯呑みを持つ手に、力が入るのを感じた。
「もう一人は?」
「山の男だ。背が高くて、岩みたいな手をしてた。三十年前でも、もう笑わん男だったが——いや、違うな」
老人は首を振った。
「あの頃は、まだ少しは笑ってたか」
二人は数日この宿場に居着き、道標を直し、峠の向こうへ消えた。
以来、東方の職人は二度と来なかったという。
「爺さん。その山の男は、それきりか」
湊が尋ねると、老石工は不思議そうな顔をした。
「それきり? 何を言っとる」
湯呑みを置き、当たり前のことのように続ける。
「山の男は、去年も来たよ」
火の入っていない炉の前で、湊とカナンは顔を見合わせた。
「去年の、いつだ」
カナンが身を乗り出す。
「秋の口だ。鑿を三本と、油を買っていった」
道具を仕入れて、山へ入る。
遊びでも、墓参りでもない。
それは今も仕事をしている人間の、買い物だった。
「顔は変わってたか」
「山の男の顔なんぞ、岩と同じよ。変わらん」
「その二人連れは、どんな話をしてた」
「仕事の話だけよ。ただ、別れ際に東方の職人が言っとったな。『こいつは俺より長生きするから、道標はこいつの寸法に合わせてくれ』と」
冗談の顔で、本気の手配りをする。
祖父らしい言い方だった。
老人は笑い、それから少しだけ声を落とした。
「ただな。昔は二人で来た男が、三十年、ずっと一人で来る。それだけは、見てて寂しいもんだ」
写真の男は、生きている。
生きて、今もあの山の網を、独りで守っている。
宿の窓から見上げた峠の空に、早い雪の匂いがした。
「明日は冷えるぞ」
カナンが荷から防寒具を引き出す。
ドンの携行炉が、さっそく役に立ちそうだった。
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