第128話 カナン、北を睨む
査察九日目の夜明け前から、カナンは北方中継所の塔上にいた。
国境の向こうでは、帝国兵が渡河訓練の準備をしている。
浅瀬へ杭を打ち、縄を張り、盾を頭上へ掲げて列を作る。
攻めては来ない。
だが、攻める手順を隠そうともしない。
『見せるための訓練だな』
塔の通話板から、湊の声がした。
査察記録を持って王都へ戻った湊は、作戦室で北境の観測手が読み上げる定時報告を聞いている。
「半分は」
カナンは帝国陣から目を離さない。
「残り半分は、本当に渡るための訓練だ。見せかけだけの軍は、足場の杭をあんな深さまで打たない」
レイスの青鷹は、嘘と影を使った。
ルーディガーの軍は違う。
できることを正面から見せ、そのうえで選ばせる。
退くか。踏み潰されるか。
『あの男、嫌い?』
通話板の向こうで湊が尋ねる。
「好きではない」
『微妙な言い方だな』
「民間人を焼いて笑う男じゃない。降伏した兵を無駄に殺しもしない」
カナンはそこで声を少し低くした。
「必要だと判断したら、笑わずに全部やるだけだ」
悪意がないから止まるとは限らない。
軍人として正しい相手ほど、命令を受けた時には迷わない。
「なら、止め方は一つだ」
カナンは言った。
「命令を出す側に、割に合わないと思わせる」
剣の届かない場所を狙う言い方を、彼女はこの一年で覚えた。
塔下の訓練場では、王国兵が結界板の交代を繰り返していた。
カナンが組み直したのは、強い兵だけを前へ出す陣形ではない。
一列目が崩れても、二列目が同じ角度で受けられる形。
隊長が倒れても、副長が同じ合図を出せる手順。
帝国が湊への依存を測っているなら、軍ではカナンへの依存を測る。
それに気づいたのは、ルーディガーの問いを思い返した時だった。
今は小国の門番か。
裏を返せば、門番一人を外せば門が開くのかと聞いている。
「私がいない隊で、もう一度」
カナンは訓練場へ下り、指揮を若い隊長へ渡した。
自分は口を出さない。
最初の展開は遅れた。
二度目は板の角度がずれた。
三度目で、ようやく三列が揃う。
国境の向こうで、帝国側の観測手が何かを書き留めるのが分かった。
見られている前提の訓練だ。
失敗も、立て直しも、全部向こうの紙に載る。
それでもカナンは隠さなかった。
「遅い」
訓練後、カナンは容赦なく言った。
「でも、止まらなかった。次は二度で揃えろ」
若い隊長は悔しそうに、それでも頷いた。
昼前、両軍の中央にある国境標のそばへ、白旗が上がった。
双方の指揮官が武器を置き、一人ずつ出て話したいという合図だった。
カナンは剣を若い隊長へ預け、迷わず国境へ出た。
向こうからはルーディガーが来る。
二人の間には、両軍が空けた三歩分の中立帯だけがあった。
間近で見るルーディガーは、噂より静かな男だった。
威圧のために声を張らない。
立っているだけで、後ろの三千が透けて見える。
「兵を増やさないのだな」
ルーディガーが言った。
「必要ない」
「三千を前にして?」
「今ある補給荷では、三千を食わせ続けられない。すぐに越えてこないなら、数だけ見ても意味がない」
ルーディガーの目が、わずかに細くなる。
湊と同じ答えへ、カナンは別の場所から辿り着いていた。
「あの職人に教わったか」
「戦場で腹が減ることくらい、前から知ってる」
「では、もう一つ」
ルーディガーは王国側の塔を見た。
「お前がここを離れた時、この線は誰が守る」
予想どおりの問いだった。
カナンは訓練場へ視線を向ける。
若い隊長が、四度目の展開を始めていた。
今度は二度目で、板が揃う。
「見てれば分かる」
カナンは答えた。
ルーディガーはしばらくその列を見つめたあと、初めてほんの少しだけ口元を動かした。
「なるほど。門番ではなく、門を作ったか」
それは賞賛ではなかった。
査定の修正だ。
だが軍団長の紙に書かれる数字も、公爵の表と同じで、こちらの積み上げ次第で動く。
白旗が下がる。
二人は背を向け、それぞれの国へ戻った。
戻り際、若い隊長が敬礼した。
「隊長。次は二度で揃えます」
「一度で揃えろ」
無茶を言いながら、カナンの声はどこか楽しげだった。
カナンは塔へ上がり直し、もう一度北を睨んだ。
敵の強さを認めても、退く理由にはならない。
むしろ、何を越えなければならないかが、ようやくはっきり見え始めていた。
その時、塔の通話板が鳴った。
届いたのは、翌日の最終査察の予定表だった。
四か所同時。その一つに、北方中継所の名がある。
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