第125話 査察官は引かない
北方中継所の査察は、帝国軍を背にしたまま続いた。
セヴェリンが最初に求めたのは、建物ではなく古い街道図だった。
「百十二年前の北方通商協定では、この中継所から帝国側旧道までを共同保守区間と定めています」
帝国の書記が原本を開く。
確かに両国の印があった。
「したがって、帝国技師二名の常駐を求めます」
「その旧道は、五十二年前の山崩れで消えています」
リゼリアが返す。
「道が失われても、協定は失われません」
「代替路の日常保守については、四十八年前の付属議定書で王国単独管理へ変更されています」
ユストが別の原本を重ねた。
セヴェリンは頁を確認し、あっさり頷く。
「では、常駐要求は取り下げましょう」
王国側の官吏が、わずかに息を吐いた。
その直後だった。
「代わりに、北方通商路を暫定不適合とします」
通商協定の安全条項は、協定に基づいて運用される通商路の記録不備を確認した査察団長に、暫定不適合の指定権を認めている。
「理由は?」
「付属議定書は日常保守の主体しか改めていません。代替路を協定上の通商路として登録した、有効な批准記録が確認できないためです」
要求は退けた。
それでも問題そのものは退けない。
帝国技師を置けないなら、今度は現行路の登録手続きを疑う。
一つの理屈が塞がれば、別の条文から同じ場所へ手を伸ばす。
ユストの手元には、百年分の協定と議定書の写しが積んである。
南河の裁定以来、彼の部下たちが古文書庫で眠っていた紙を掘り起こし続けた成果だ。
紙で来る敵には、紙の備えでしか立てない。
「不適合になると?」
湊が尋ねた。
「北方通商路を通るすべての積荷について、国境で全量検査が必要になります」
荷主の国籍も、荷の向きも問わない。
検査台一つにつき、荷車一台で半日。
生鮮品なら、それだけで価値が落ちる。
軍を一歩進めるより、ずっと静かに道を止められる。
「現物に不備はありません」
湊は中継所の接続盤を開いた。
「道幅も、橋の荷重も、荷札の読取規格も、現行条約を満たしています」
「ええ」
セヴェリンは否定しなかった。
「ですが、代替路を協定対象へ編入した批准記録が不完全です」
物ではなく紙。
直して終われない種類の欠陥だった。
「批准書原本の欠落は、四十年前の文書庫火災によるものです。焼失目録と再交付の記録は残っています」
ユストが差し出す。
「再交付は、王国単独の署名ですね」
セヴェリンは一枚も見落とさない。
リゼリアが一歩前へ出る。
「では共同確認にします」
「共同管理は、先ほど殿下がお断りになった」
「管理ではありません。記録の相互確認です」
王国側が検査し、結果を通話板で帝国側へ同時送信する。
封印鍵は双方が別々に持ち、片方だけでは記録を書き換えられない。
帝国技師を国内へ常駐させず、検査結果の透明性だけを渡す案だった。
「合理的です」
セヴェリンは言った。
「ですが、お断りします」
カナンの眉が上がる。
「自分で合理的って言っただろ」
「帝国の利益と一致する、とは申しておりません」
穏やかなまま、本音を隠さない。
帝国が欲しいのは正しい検査ではない。
国内へ人を置く権利だ。
交渉は日が傾くまで続いた。
リゼリアは常駐を認めない。
セヴェリンは不適合指定を外さない。
結論は出なかった。
前回なら、結論なしは王国側の勝ちだった。
だが今回は、指定が残る一日ごとに荷車が止まり、商人が損をする。
時間そのものが帝国側の武器になっている。
「谷側の旧待機場を臨時で開けます」
湊は地図を引き寄せた。
「検査は正規の検問所で受けます。ただ、検査待ちの荷車を停める場所を二つに分ければ、街道の詰まりは半分になります」
できるのは、それくらいだ。
それでも、何もせずに痩せていくよりはいい。
夕刻、最初の全量検査が始まった。
国境へ並んだ荷車は十二台。
検査官は封を一つずつ切り、箱の底まで確認していく。
「明日の朝には三十台を超えます」
国境役人が青い顔で言った。
「分かっています」
リゼリアは列から目を逸らさなかった。
セヴェリンは宿舎へ戻る馬車へ乗る前に、丁寧に一礼した。
「急いで譲歩なさる必要はありません。帝国は待てます」
その言い方で分かる。
待てない側が誰か、公爵は正確に知っている。
軍団長は国境に立ち、査察官は交渉卓から引かない。
先に疲れた側が、自分から線を明け渡す。
帝国は、その瞬間を待っていた。
毎日21時更新予定。お気に入り登録ぜひよろしくお願いします。




