第124話 ルーディガーの旗
査察四日目の午後。
セヴェリンが予定を変え、北方中継所の現地確認を求めたのは、前日の朝だった。
「北境応答時間を測るのでしょう」
リゼリアが言う。
「ご明察です」
帝国軍の集結が報告されてから二日後、帝国査察団まで同じ国境へ向かうことになった。
偶然と言い張れる程度に、よくできた連携だった。
王都から北方中継所まで、改修済みの街道なら一日半。
査察団にはリゼリア、湊、カナン、ユストが同行した。
セヴェリンは道中、橋の幅を測り、補給所の在庫を数え、通話板の中継時刻を書き留めた。
そのすべてが、帝国軍を南へ動かす時にも使われかねない情報だった。
見せたくはない。
だが隠せば、管理不備と書かれる。
「査察って便利だな」
カナンが馬上で吐き捨てた。
「剣を抜かずに敵地の道を測れる」
「ですから、こちらも何を見せたか記録します」
ユストは淡々と答えた。
帝国側が橋を一か所測るたび、王国側も査察官の質問と視線を残す。
一方だけが情報を持ち帰る査察にはしない。
道中の補給所では、所員が慌てずに帳簿を出した。
査察慣れ、という言葉も変だが、南河の特別監査以来、見せて勝つための手順だけは整えてきた。
一行が北方中継所へ着くと、国境の向こうに黒い陣列が見えた。
二里北に布陣していた帝国軍が、演習隊列を組んで国境標の近くまで進み出ている。
三千近い兵が、声もなく隊列を変えている。
隊列変更の号令は旗だけ。
歩兵が開き、騎兵が抜け、補給車が中央へ入る。
大人数のはずなのに、動きが一つの生き物みたいだった。
「あれを三千でやるのですか」
ユストが思わず呟く。
王国軍で同じ精度を出せるのは、まだ数百単位でしかない。
差を認めるところから、対策は始まる。
その正面に、黒地に銀の城壁を描いた旗が立っている。
旗の下にいた男は、遠目にも大きかった。
灰色の短髪。飾りのない黒鉄の鎧。兜は脇へ抱え、国境標の手前でこちらを待っている。
ルーディガー・アイゼンフェルト。
カナンが馬を下りた。
「知り合いですか」
リゼリアが尋ねる。
「顔を見たことがある程度です」
答えながら、目は男から離れない。
リゼリアはそれ以上聞かなかった。
S級冒険者が視線を外せない相手というだけで、情報としては十分だった。
ルーディガーは国境を越えず、よく通る声で言った。
「S級冒険者カナン・ヴァルカ」
「軍団長に名前を覚えられるようなこと、したか?」
「帝国の徴募を三度断った」
「四度だ」
「そうだったか」
カナンの口元が少し上がる。
だが、笑っている目ではない。
「今は小国の門番か」
「気に入ってる仕事だ」
「そうか」
ルーディガーはそれ以上、侮る言葉を使わなかった。
代わりに右手を上げる。
帝国陣の号笛が一度鳴った。
前衛の歩兵三列が一斉に前進する。
地面が震えた。
国境標まで百歩。
五十歩。
二十歩。
ルーメリア側の兵に緊張が走る。
結界板へ手を掛ける者。槍を立てる者。
カナンは動かなかった。
「まだだ」
十歩。
そこでルーディガーの拳が閉じた。
前衛三列すべてが、同じ一歩で止まる。
槍先は国境を越えていない。
だが、その気になれば次の一歩で踏み込めると、全員へ見せつけた。
湊は兵列ではなく、その足元を見た。
止まった位置が揃いすぎている。
何度も同じ距離を測り、訓練してきた動きだ。
それに、土の色。
停止線の手前だけ、踏み固められ方が濃い。
今日が初めてではない。
この軍は集結した日から、あの十歩を繰り返し稽古している。
こちらの反応を見るための前進。
誰が先に号令を出すか。
どの塔が鳴るか。
結界板を何秒で展開するか。
軍事演習の顔をした査察だった。
通話板が鳴る。
『後方隊、配置完了』
『中継所結界、展開待機』
王国側も、予定どおりだった。
慌てて増兵せず、必要な場所だけが静かに動いている。
ルーディガーの目が、カナンの後ろへ向いた。
「以前より、国らしくなったな」
「前から国だ」
「守れなければ、地図の色にすぎん」
ルーディガーは旗の根元へ手を置いた。
「査察が終わるまで、我々はここにいる」
銀の城壁旗が、北風を受けて大きく開いた。
国境線から中継所へ戻る馬車の中で、リゼリアは短く言った。
「答え合わせは、七日以内に来ます」
十日間の査察期限と、十日ほどで尽きる演習の糧秣。
二つの砂時計は、ほとんど同じ速さで落ちていた。
紙を読む公爵と、国境へ立つ軍団長。
帝国は二つの方法で、同じ答えを求めていた。
ルーメリアは、本当に守れる国なのかと。
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