第123話 北境の軍靴
査察二日目の朝。
帝国北方軍は、国境を越えていなかった。
正確には、越えなくても見える場所まで来ていた。
北境監視塔から届いた観測記録を、カナンは作戦室の床に並べた。
土煙の幅。
夜営火の数。
補給車の轍。
朝夕に鳴る号笛の間隔。
「歩兵二千。騎兵三百。工兵と補給隊を合わせて、三千弱」
軍旗を直接数えたわけではない。
それでも彼女は迷わなかった。
「分かるのか」
湊が尋ねる。
「三千人が歩けば、地面が三千人分汚れる」
短い答えだった。
カナンは観測記録を時刻順に並べ替え、夜営火の位置を指でなぞった。
「火の間隔が均等すぎる。新兵の多い軍は、火が偏る」
「つまり?」
「三千のうち、少なくとも半分は場数を踏んでる」
数字の向こうの練度まで、彼女は土と煙から読んでいく。
帝国側の発表は、北方軍による季節演習。
場所も帝国領内。兵数も条約違反ではない。
だが三千の兵が国境近くで同時に靴を鳴らせば、それだけで南側の町は怯える。
すでに北境の商人が二組、王都行きを取りやめた。
農村では、備蓄の麦を床下へ隠す家まで出ている。
軍は一歩も入らずに、人と荷を止め始めていた。
北境の町から届いた手紙には、子どもを南の親戚へ預けるべきかという相談まで混ざっていた。
戦は始まっていない。
だが暮らしの側では、もう始まりかけている。
王城から北境の町長たちへは、避難ではなく在庫の分散を先に頼んだ。
逃げる準備は、時に不安を追い越して広がるからだ。
ただし、帝国軍の越境、または監視塔との全回線があらかじめ定めた時間を超えて途絶した場合には、退避合図を出す。王城の追加命令を待たず子どもから南へ送れるよう、町ごとの退路も文書で伝えた。
「こちらも兵を上げますか」
軍務官がリゼリアに問う。
「上げすぎれば、帝国は“軍事的緊張への対応”を名目に増派できます」
「では、何もせずに?」
「何もしないとは言っていません」
リゼリアはカナンを見る。
「必要な数は?」
カナンは地図に三本の指を置いた。
「王都から国境砦へ二百。後方拠点へ三百。北へ出すのはそれだけで、残りは動かさない」
「帝国は三千だぞ」
軍務官が声を上げる。
「戦う数じゃない。慌ててないと見せる数だ」
「兵には、そう伝わりますか」
リゼリアが問う。
「伝える。数を並べるより、飯と交代の予定を先に配る。長く立つ備えがあると分かれば、兵は落ち着く」
カナンの答えには、夜営の火を数えてきた人間の実感があった。
全軍を北へ寄せれば、王都と港が薄くなる。
帝国が見たいのは、まさにその動きだ。
湊は補給記録に目を落とした。
帝国軍の集結三日前から、北側の町で乾草と塩肉の買い付けが増えている。
だが量は三千人が長く滞在するには足りない。
「今見えている補給では、演習は十日程度」
湊が言う。
「どうして分かる」
「今見えている荷だけでは足りない。それ以上いるなら、次の補給が要る」
「来たら?」
「長く居座る備えに切り替えたってことだ」
軍靴の数と、腹を満たす荷の数。
両方を見なければ、敵の本気は読めない。
王都から北境へ送る兵は、予定どおり五百に決まった。
代わりに通話板の確認回数を増やし、街道沿いの補給所を通常どおり開く。
北へ発つ五百には、結界板と冬装備を優先で回した。
数で並ばないなら、一人あたりの支度で並ぶ。
職人にできる援護は、そういう形をしている。
隠さない。
逃げない。
だが、相手の音に合わせて全員で走りもしない。
その日の午後、北境から二度目の報告が届いた。
『帝国軍、国境線の北二里に布陣』
『黒地に銀の城壁旗を確認』
カナンの指が止まる。
「知ってる旗か」
「ルーディガー・アイゼンフェルト」
いつもより低い声だった。
「帝国北方辺境軍団長。“動く城壁”って呼ばれてる」
「強い?」
「強い」
カナンはためらわなかった。
「レイスみたいに闇へ隠れる男じゃない。昼間、全員の目の前で正面から潰す。必要なら一月でも同じ場所に立ち続ける」
暗殺者より、よほど嫌そうな言い方だった。
「戦ったことは?」
「ない。あの旗の下の軍とは、正面からやり合わないのが冒険者の常識だ」
「常識、破りそうだな」
「必要なら」
即答だった。
帝国が国境に置いたのは、ただ人数の多い軍ではない。
退かないことで相手を先に疲れさせる、北方軍そのものの顔だった。
毎日21時更新予定。お気に入り登録ぜひよろしくお願いします。




