第121話 帝国査察開始
南河へ帝国の正式文書が届いてから、きっかり七日。
グランゼル帝国の査察団は、朝一番に王都北門をくぐった。
馬車は五台。前回より二台多い。
書記、通商官、水利技師、倉庫検査官。それぞれが帝国の印を付けた箱を抱え、護衛兵は事前通告で定めた儀礼上限ぎりぎりの二十名。
軍隊ではない。
だが、国の内側まで入り込む刃としては十分だった。
北門大路では、朝市へ出る途中の職人や商人が足を止めていた。
南河の件を知っている者ほど、視線が硬い。
それでも半年前のように、黙って道を空けるだけの群衆ではなかった。
荷を降ろさず、店を閉めず、仕事の手を続けながら査察団を見ている。
怯えと観察は、似ているようで違う。
先頭の馬車から降りたセヴェリン・ヴァイスハイトは、南河で待つ人々の苦労など知らない顔で微笑んだ。
「再びお招きいただき、光栄です」
「招いた覚えはありませんが、歓迎いたします」
リゼリアも笑みを崩さない。
最初の挨拶から、少しも譲る気がない。
この七日で双方が取り交わした受入議定書では、査察期間は十日。
対象は、南河への介入と通商条約に直接関わる施設および記録に限られる。帝国側に捜索や押収の権限はなく、設備を使った試験にも王国側責任者の同意と立ち会いが要る。
査察団は四班に分かれ、王国側も各班に立会人を付ける取り決めだった。
査察団は王城へ入る前に、持ち込んだ計器と書箱を一つずつ開示した。
流量計。秤。荷札読取盤。契約書の原本。百年前まで遡る通商記録。
手続きは正しい。
正しいからこそ、止めにくい。
湊は水路用の流量計を手に取り、目盛りを確かめた。
「これ、帝国基準ですね」
「もちろん」
セヴェリンが即答する。
「今回の申し立ては、帝国通商信用院の保証契約に関するものですので」
「でも測る場所はルーメリア国内です。王国基準との換算表を付けてください」
「水量そのものに違いはありません」
「単位と測定位置が違えば、同じ流れでも数字の意味が変わる。南河で一度やった話です」
公爵の微笑が、ほんの少し深くなった。
「では両方で測りましょう」
拒まなかった。
拒む必要がないのだろう。
帝国側は、最初から一つの数字で勝負する気ではない。
リゼリアが小さく頷き、ユストは双方の計器を同じ水路に並べて同時に測り、換算表を作るよう、その場で技師と書記官に指示した。
半年前なら、単位一つの確認に三日はかかっていた。
今は会議の中で手配が終わる。
帝国側の書記が、その速さだけを黙って書き留めた。
王城の会議室で、査察予定表が広げられた。
南河の水門。
共同倉庫。
王都の財務局。
北方通商路。
北西鉱山区の出荷記録。
十日間で四十二か所。
「多すぎる」
カナンが遠慮なく言った。
「事実確認には必要です」
「移動だけで五日は潰れるぞ」
「それは王国側の交通事情でしょう」
穏やかな声だった。
だが予定どおり動けなければ、それ自体を「管理能力不足」と書ける。
査察の中身だけではない。
査察に対応できる国かどうかまで測る日程だった。
予定表の端には、休憩の欄がない。
四班に分けても、案内役を務める王国側の官吏まで十日走り続ける前提の紙だった。
「案内は交代制にします」
ユストが即座に人繰りを書き換える。
向こうが人を試すなら、こちらは制度で受ける。
湊は予定表を上から見直した。
場所の選び方に癖がある。
水門の次に倉庫。
倉庫の次に財務局。
王都へ戻った直後に北方街道。
移動距離が長いだけではない。
同じ担当者が必要な場所を、わざと連続させている。
「全部に同じ人間を立ち会わせる必要はありませんよね」
湊は言った。
「水利は水利局、倉庫は監査官、財務はユストたち。担当を分けて、記録は通話板で同時共有します」
「責任者が分散すれば、説明も食い違うのでは?」
「食い違わない仕組みを作ってあります」
復興監督権のもとで、書式と測定基準はすでに揃え始めている。
湊一人を四十二か所へ走らせる必要はない。
セヴェリンは予定表に一本、細い線を書き加えた。
「結構。では、それも査定いたしましょう」
こちらの対策まで、相手の測る対象になる。
会議が終わる直前、北塔から通話板が鳴った。
『北境より急報。帝国北方軍、国境北側へ集結中』
室内の視線が、一斉にセヴェリンへ向く。
公爵だけが、初めて聞いた知らせのように眉を上げた。
「北方軍の演習期が、少し早まったようですな」
知らなかったはずがない。
だが、知っていた証拠もない。
紙の上の質問と、国境の軍靴。
二つは別々の顔で来て、同じ場所を押してくる。
査察団は帳簿を持って王都へ入った。
その背後では、帝国の軍靴まで同じ国境へ近づいていた。
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