第120話 停滞の正体
流域非常事態の認定から七日目。
南河特別監査の第一回公開報告は、中央船着場で行われた。
十二村の村長。
代官所の官吏。
水門番、倉庫係、運送人。
そして南河水利商会の代表たち。
誰でも見られるよう、帳簿は大きな板に写して並べられた。
村から出た麦。
倉庫で差し引かれた分。
商会が売却した量。
借款へ充当された金額。
四年分の数字を一本の線で繋ぐと、消えていたものが見える。
水利商会は、届いていない水に保証料を課していた。
現物で受け取った麦の一部を、返済へ回していなかった。
生産力査定は実際の収穫ではなく、設備の理論上限を基準にしていた。
過払い額は、借款元金の六割を超えた。
証言台へ、水門番の老人が立った。
「水を絞ったのは私だ」
村人たちの視線が集まる。
「だが、開けば村の借金が増えた。閉じれば畑が死んだ。毎朝、どちらを選んでも誰かに恨まれると思って盤を触った」
次に倉庫係が、帝国印の札を掲げた。
「差し引いた麦を別口で売るよう命じられました。仕事を失うのが怖くて、従いました」
数字だけでは見えなかった四年間が、働いていた者の口から語られる。
停滞を作ったのは、一人の悪人だけではない。
悪いと知りながら、他に選べる道を持てなかった人々の小さな服従が積み重なっていた。
広場がどよめく。
「算定方法の違いです」
ハーゲンはまだ平静を崩さなかった。
「帝国式の商慣行では、本流水門で引き渡しが完了します」
「ここはルーメリアです」
通話板から、リゼリアの声が響いた。
王都を離れられない王女は、会議に遠隔で出席していた。
「王国内の水利権に適用されるのは、王国水利法です。契約書にも、現地法に従うと明記されている」
ユストが見つけた一行だった。
帝国式の書式で作られた契約の末尾に、目立たない文字で入っていた。
貸し手は都合のよい帝国基準を使いながら、責任を避けるため現地法遵守の文言も残していた。
その一行が、今度は南河を守る側へ回った。
「復興監督権に基づき、本日付で係争中の追加費用を凍結します」
リゼリアが特別監査の結果に基づく裁定を読み上げる。
借款そのものは消さない。
四年前に村を救った元金と、正当な利息は返す。
ただし過払い分を元金へ充当する。
確定した残債は、王国財務局が水利商会へ一括弁済する。十二村の返済先は、低利の王国借款へ切り替える。
その原資は、青鷹と第二王子派から没収した密輸収益と資産を基に設けた王家の復興基金から出す。
帝国の通商信用院に頼らず、王国の中で返済を完結させるための財源だ。
借り換え後の債権管理は、リゼリアへ委ねられた復興監督権のもとで王国財務局が担う。
一括弁済と同時に、水利商会が担保として握っていた水利施設の運営権と、収穫物への権利も解除される。
水量は各村の用水口で測り直す。
水利組合の議決権は、商会の出資額ではなく各村一票に戻す。
また、測量記録で水が届かなかった区画を確定し、失われた今季の苗は復興基金から補填する。
ただし、借り換え後の元金返済と、次季の種麦を確保する負担は残る。
十二村は最初の収穫から二十分の一を先に確保し、借り換え後の返済と共同種麦庫の積み立てに充てる。王家が低利で支えても、四年分の損失をなかったことにはできない。
水を再び開くための費用も、公開の帳簿で数年かけて支払うことになった。
共同倉庫の帝国式登録盤は、未申告売却の追跡監査が終わるまで遠隔送信を停止する。
「一方的な介入です」
ハーゲンの声が初めて強くなった。
「帝国通商信用院は承服しないでしょう」
「承服していただくために、すべての数字を公開しました」
リゼリアは退かない。
「異議があるなら、同じく公開の場で伺います」
倉庫係が壁から帝国印の札を外した。
一枚。
また一枚。
木札が箱へ落ちる音がするたび、村人たちの間から押し殺した息が漏れた。
ハーゲンはもう止めなかった。
公開された帳簿の前で札を守れば、未計上の麦を守ることになる。
商会の信用を語ってきた男が、自分の信用によって動きを封じられていた。
大歓声は起きなかった。
四年間、動けば悪くなると教え込まれた人間は、一度の裁定ですぐ走り出せない。
それでも翌朝、第一村の畑に人が集まった。
苗床から苗を運ぶ者。
水路の泥をさらう者。
解体した水車の羽根を、もう一度並べる者。
湊は水門の真鍮板を外さなかった。
代わりに設定を書き換え、畑へ実際に届いた量を基準にする。
正しく測れば、水門は必要なところまで自然に開いた。
支流の先で、あの農婦が小さな器を置いた。
水は内側の傷を越え、今まで届かなかった畑の一列へ流れていく。
彼女はもう水門を閉じなかった。
苗床から運ばれた苗が、濡れた土へ一本ずつ植えられていった。
流域非常事態の認定から三十日目。
七日ごとの再測定では改善が続いた。そして、この日の最終測定で用水口の実到達量が基準を回復し、流域非常事態の認定は予定どおり終了した。
同じ日、浮き桟橋も仮設施設としての使用期限を迎えた。
期限を迎えた浮き桟橋も、そのまま失われはしない。
小舟と工具は持ち主へ返し、保管する廃材と密閉樽は提供者の同意を得て王家が買い取った。
王国軍から回した金具と合わせ、王家の非常用輸送設備として川岸の倉に保管する。次の渇水や洪水で必要な許可が下り次第すぐに再び組めるよう、連結順まで木札に記した。
「結局、何が壊れてたんだろうな」
流れ始めた支流の横で、カナンが言った。
「繋ぎ方だと思う」
湊は答えた。
借款は人を救い、水門は命令どおり動き、村人は損を避けるために止まった。
一つずつは合理的でも、誰か一人だけが得をする順番に繋げれば、人を閉じ込める。
昼過ぎ、王都から早馬が到着した。
届けられたのは、グランゼル帝国からの正式文書。
南河水利商会への王国介入について、事実確認を求める。
あわせて、通商条約に基づく正式査察団を王都へ派遣する。
団長名は、セヴェリン・ヴァイスハイト。
査察開始は七日後。
南河の水は動き出した。
その流れを誰のものとするか確かめるため、帝国そのものが王都へ来ようとしていた。
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