第108話 動かない理由
夜明け前、宿の扉を叩いたのはカンラッドだった。
老人の後ろにはゲンツと封鎖坑道の見張りが立っている。
「外壁までなら見せる」
カンラッドは条件を三つ挙げた。
黒い石を動かさない。封印に触れる時は先に告げる。カンラッドが中止を命じたら、理由を聞くより先に退く。
「一昨日は帰れと言ったのに?」
カナンが尋ねる。
「直せると聞いただけで壁を壊す者か、まず見た。次は、止まれと言われた時に止まれる者かを見る」
許されたのは調査であって、開封ではない。
湊は条件を復唱し、カンラッドとゲンツの立会いを記録板に残した。
四人は見張りと一緒に鉱山へ向かった。
石壁を改めて調べると、右端の一か所だけ黒灰の詰め方が浅かった。
整備のため、開閉できるよう残された継ぎ目だ。
湊が継ぎ目を示すと、カンラッドが一度だけ頷いた。
細い解析具を差し込む。
流路を壊さないよう三つの留めを外すと、人一人が通れる幅だけ石壁が沈んだ。
その向こうで、坑道は真っ直ぐ奥へ続いていた。
支柱も軌道もそのままで、床には封鎖前の車輪跡まで残っていた。
「やっぱり、意図的な封鎖だ」
魔力灯を掲げ、さらに進む。
百歩ほど先で、坑道は黒い壁に行き当たった。
魔鉱を溶かし、板状に固めた封印材だ。
中央に符号が刻まれている。
二重円。
そこに重なる三本の斜線。
中心の小さな三角。
祖父の二冊目の手記にあったものと同じ系統の符号だ。
ただし、手記の符号より線が一本多い。
三本の斜線を囲むように、外側に太い輪が追加されている。
湊にはその意味が読めた。
外側の円は、内側から押し返される力を外周へ逃がし、循環させる輪だった。
封印の向こうで何かが、今もこちらへ流れ込もうとしている。
「境界工匠が関わってる。表面の流れを確かめます」
そう告げて、湊が指で触れようとすると、横から声が飛んだ。
「そこまでだ」
カンラッドだった。
怒りよりも、ついにここまで来たかという疲れが老いた顔に浮かんでいる。
湊は約束どおり手を下ろし、封印から一歩退いた。
「外壁まで、というのは、この封印を勝手に開けるなという意味ですね」
「そうだ」
「落盤も、嘘だった」
「そうせねば、誰かが掘る」
「誰に命じられた」
老人は答えない。
湊は鞄から二冊目の手記を出し、符号の描かれた頁を開いた。
「俺の祖父も境界工匠でした。この封印の先で何が起きてるのか、知る必要がある」
「血筋だけで、継いだことにはならん」
「だったら、何を待ってたんです」
カンラッドの視線が手記へ落ちる。
長い沈黙のあと、老人は坑道の壁に手をついた。
「継ぐ者が来るまで黙れと言われた」
「誰に」
「三年前、一人の旅人がここを通った」
見た目だけでは年齢の読めない男だった。
王国のどの地方とも違う服を着て、案内もなしに鉱脈の異常を言い当てた。
男は採掘区画を封じなければならないとカンラッドへ告げた。
「それだけで従ったんですか」
湊が聞くと、カンラッドは首を振った。
「最初は追い出した。次の日、最深部で黒い霧が出た」
霧に触れた魔力灯は光を失い、鉱夫二人が意識を失った。
旅人は一人で霧の中へ入り、二人を抱えて戻った。
それから三日、眠らずに封印を組んだという。
「二人のうち、一人は俺です」
ゲンツが左手を開き、曲がった中指を見せた。
「意識が戻った時、この指だけ他人の手みたいに冷たかった。今も寒い日は感覚がありません」
鉱夫たちは自分の体で、次には命を取られると知った上で採掘を止めたのだ。
「封じれば鉱石は痩せる。町も貧しくなる。あの男は全部言った」
「それでも?」
「封じなければ、最初に死ぬのは鉱夫だともな」
町を守るため、町の仕事を細らせる。
カンラッドはその選択を三年間、町の者の大半に理由を明かせないまま背負ってきた。
旅人は最後に、「止めなければ、鉱山だけでは済まない」と言い残した。
「名前は?」
「名乗らなかった」
「なぜ、王都へ報告しなかったんです」
老人は苦い顔で笑った。
「三年前の王都へか?」
第二王子とベルノルトが実権を握り、青鷹が軍需を外へ流していた頃だ。
価値のある封印だと分かれば、守るより利用する人間が先に来ただろう。
「王都が変わったという話は聞いた。だが、王都から来た者が同じとは限らん」
「それで俺を試した」
「直す場所はないと言って帰るなら、それまでだと思った」
直せないものを壊してでも成果を求める人間か。
壊れていないという言葉の奥まで見る人間か。
老人は最初から、それを見ていた。
湊は手記に挟んだ古写真を取り出した。
若い祖父と、その隣に立つ見知らぬ男。
カンラッドの呼吸が止まる。
「この中にいますか」
老人の節くれだった指が、祖父ではない方を指した。
「この男だ」
写真は何十年も前のものだ。
だがカンラッドは迷わない。
「同じ男だ」
カナンが写真と老人を交互に見た。
「見間違いじゃないのか」
「顔は老いていた。だが、この目を忘れるものか」
カンラッドは封印へ向き直った。
「あれは、自分がもう戻れぬと知っている者の目だった」
祖父の隣にいた男は、写真が撮られてから何十年後も、境界を歩いていた。
三年前にはこの山を止め、「継ぐ者」が来るまで封印を守る役目をカンラッドに託した。
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