第105話 祖父の書斎、二冊目の手記
王城地下と祖父の蔵を繋ぐ扉は、もう湊一人なら負担なく通れる。
以前のように光へ飛び込む覚悟もいらない。
工式鍵を合わせ、取っ手を引く。
王城地下の冷えた石壁が、次の瞬間には古い木造の蔵へ変わる。
境界を越えることに慣れた自分が、少し怖かった。
日本は午後だった。
障子の隙間から差す光に埃が浮き、遠くで配送車の音がする。
数歩前までいた王城には剣を帯びた衛兵がいたのに、こちらではスマホの着信履歴と郵便物の束が待っている。
湊は仕事関係へ短い連絡を返し、母屋の換気をしてから祖父の書斎へ入った。
留守番電話には、以前手掛けた展示設備の補修相談が入っていた。
図面を見れば一日で直せそうな内容だ。
異世界では国の基盤を繋ぎ、日本では止まりやすい展示台の相談が待っている。
後輩職人の直人からは、『現地を先に見て、寸法を拾っておきます』と伝言が入っていた。
湊の不在を取り繕うのが当たり前になり始めた声に、安堵と申し訳なさが同時に残った。
どちらも湊にとっては仕事だった。
けれど一方へ立つ時間が増えるほど、もう一方では説明できない不在が長くなる。
『折り返しが遅れてすみません。日程を確認します』
返信を送ってから、仕事用スマホを伏せた。
今はまだ、二つの暮らしを同じ机へ載せる方法が見つからない。
目的は、未解放接続先の手掛かりだ。
一冊目の手記、設計図、工具箱。
読めるものは何度も見直した。
だが祖父は、必要になる前の答えを簡単に見つけさせる人ではない。
本棚から古い修理記録を抜き、机の引き出しを外す。
床板まで調べても何もない。
「もう少し普通に遺してくれよ」
独り言へ返事はない。
諦めかけて椅子に座った時、脚がわずかに鳴った。
以前はなかった傾きだ。
椅子を裏返すと、座面の下に細い革紐が渡してある。
補強に見えるが、結び方が祖父の工具箱と同じだった。
紐を解くと、薄い板が外れ、その内側から布包みが落ちてくる。
二冊目の手記。
表紙には題名も名前もない。
最初の数頁は、修理した時計や建具の記録だった。
だが途中から、文字の向きが逆さになる。
手記を百八十度回す。
『境界工匠は一人ではない』
湊は息を止めた。
その下には、三つの符号が描かれている。
二重円と三本の斜線。その中心に、小さな三角。
似た構造を持ちながら、線の閉じ方だけがそれぞれ違う。
『系譜は三つに分かれている』
続く頁は読めなかった。
文字が薄いのではない。紙の上には確かに何か書かれているのに、目で追おうとすると意味だけが滑る。
工式鍵が掛かっている。
条件を満たした部分だけ読めるよう、祖父が記録そのものを閉じているのだ。
この手記も、もっと早く見つけていれば、冒頭の二文さえ読めなかったのだろう。
未解放接続先へ気づいたことで、読める範囲が増えたらしい。
湊は机のスタンドを点け、紙を斜めから照らした。
筆跡の窪みだけなら追える。
三つの符号の横には、それぞれ短い語が刻まれていた。
だが読めたのは最初の一字だけ。
繋。
逸。
封。
その先は工式に弾かれる。
祖父は推測だけで先へ進むのを許していない。
「三つ……」
転移炉で工式へ触れた時、自分のものではない何かが応じた。
祖父だけでは説明できなかった反応。
別の境界工匠がいるなら、あれは呼びかけだったのかもしれない。
頁を慎重にめくると、古い写真が一枚、机へ落ちた。
若い頃の祖父が写っている。
今の湊の父と同じくらいの年齢だろう。無愛想な顔は記憶の中と変わらないが、背筋はまっすぐで、片手に見覚えのない工具を持っていた。
その隣に、もう一人いる。
若い男。
襟の高い上着に、左右で留め方の違う帯。現代日本の服ではない。
けれどルーメリアで見たどの地方の服装とも違う。
二人は親しげに肩を組んではいない。
少し距離を空け、それでも同じ作業台へ手を置いている。
仲間というより、同じ仕事を任された職人の立ち方だった。
作業台の上には、三つの台座が見える。
一つには祖父の手。
一つには隣の男の手。
残る一つだけは、写真の外へ切れていた。
偶然の構図には見えない。
三人目が撮影者だったのか、それとも最初から不在だったのか。
写真の裏には、祖父の字で一行だけある。
『閉じる者がいなければ、繋ぐ者は帰れない』
湊は遺品スマホを取り出した。
表示は変わらず、未解放接続先あり。
だが画面へ写真を近づけた瞬間、通知欄が一度だけ淡く明滅した。
偶然ではない。
祖父は、答えを隠していたのではなかった。
湊が答えを扱える場所まで来るのを、ずっと待っていたのだ。
写真の男は誰なのか。
三つの系譜は、何を繋ぎ、何を閉じるのか。
二冊目の手記は謎を解くどころか、知らなかった扉をもう二つ増やしていた。
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