第104話 契約書の棚卸し
「ところで」
帝国特使との会談が終わる間際、セヴェリンは書面を閉じながら言った。
「第三王女殿下と特別技術顧問殿の婚姻は、いつ頃に?」
湊の手が止まった。
「婚姻の予定は公表しておりません」
リゼリアが即座に返す。
「これは失礼。帝国へ届いた報告では、恋人として正式な契約を結ばれたと」
正式な契約。
間違ってはいない。間違っていないからこそ、訂正しにくい。
セヴェリンは淡く笑った。
「お二人の関係は、今後の通商にも関わりましょう。異邦の技術が王家に属するのか、個人に属するのか。帝国の商人は線引きを好みますので」
その場では、リゼリアが「私事です」と切り捨てた。
だが私事で押し通すには、二人の関係はもう公に使われすぎている。
その日の夜。
リゼリアの執務室で、二通の契約書が机へ広げられていた。
一通は、最初に署名した時より紙の端が少し柔らかくなっている。
舞踏会の前、政略結婚を避けるために作った偽恋人契約。
王女を守る盾であり、異邦人の湊を王城へ置く根拠でもあった。
もう一通は、今夜用意されたばかりの特別技術顧問契約だった。
「先に、混ざっていたものを分けます」
リゼリアは新しい書面を湊の前へ置いた。
「あなたが王城で働く根拠を、私的な関係へ預けたままにはしません。セレスティア姉様は東方滞在中の今も、現役の上位継承候補です。わたくし個人の契約だけで、将来の王権まであなたの技術を所有したことにはできない」
新しい契約には、境界技術と改修図面の帰属が明記されていた。
湊が持ち込んだ技術は湊に属する。王国が使えるのは、本人が用途を確認した公共設備に限る。軍事転用と第三国への再譲渡には、別の書面と本人の同意が要る。
顧問職の報酬、経費、辞任手続きも、恋人契約とは無関係に定められている。
「最初から、こうしておくべきでした」
「最初は、城へ置いてもらうだけで精一杯でしたから」
「ですから今、直します。六か月ごとに、財務局と工務局を交えて公開の見直しをする。わたくしが席を失っても、この契約は勝手に私物化も破棄もできません」
湊は条文を読み直し、署名欄へ名を書いた。
リゼリアも王女印ではなく、復興監督責任者として署名する。
王都帰還後に公文書化した再契約にも、特別技術顧問の条項を新しい契約へ移すと付記した。
これで、技術顧問として王城にいる理由は、偽恋人の紙から離れた。
そのうえで、古い方の契約が二人の間へ残った。
「あの契約書、破棄しますか」
リゼリアが静かに尋ねた。
湊はすぐに答えられなかった。
第二王子は失脚した。
押し付けられていた婚約話も止まっている。
顧問職まで別の契約へ移した今、この紙を残す政治上の必要はほとんど消えた。
「破棄した方がいいと思いますか」
「質問に質問で返さないでください」
「すみません」
二人で条文を上から読み直す。
公の場では互いの立場を損なわない。
危険が迫った場合は情報を共有する。
一方の都合だけで契約を利用しない。
契約終了は双方の合意、または一方からの撤回による。
必要に迫られて書いたはずなのに、今読むと妙に二人らしい。
余白には、その後に加えた小さな追記もあった。
地方視察中は互いの安全を優先すること。
公務上必要な同行と対外演技の範囲は、事前に書面で決めること。
身体へ触れる場合は、その場の拒否を優先し、同意はいつでも撤回できること。
舞踏会の前にはなかった文だ。
最初の地方視察へ向かう前夜、どちらからともなく書き足した。
恋人らしく見せるための偽物の契約が、二人で過ごした時間に合わせて少しずつ形を変えている。
「第三条、だいぶ破ってません?」
湊が指差す。
「どちらがですか」
「王女の独占宣言は、一方の都合に入りません?」
「必要な政治判断です」
「便利だな、政治」
「あなたも恋人の肩書きを使って工房予算を通したことがあるでしょう」
「あれは現場判断です」
「便利ですね、現場」
思わず二人で笑った。
笑いが消えると、部屋は急に静かになる。
契約を破棄すれば、嘘を一つ終わらせられる。
同時に、今まで当然のように許されていた距離も終わる。
式典で近くに座る理由。人前で手を取る理由。疲れた夜に隣へいる理由。
湊は、宴の帰りに、演技ではなく彼女の手を取った夜を思い出した。
あの時は、弱った王女を支えるためだと言えた。
城壁で並んだ時も、式典で近くに座った時も、いつも国のためという理由が先にあった。
では国が立ち直ったら、手を離すのか。
その問いにだけ、契約書は答えてくれない。
本当は、契約がなくても残るものがある。
けれど、それに名前をつけるには、二人ともまだ国の話を背負いすぎていた。
「リゼリアは?」
湊が名前で呼ぶと、王女の指が止まった。
「政治の話じゃなければ、どうしたいですか」
ほんのわずか、青い目が揺れる。
「……全部に名前をつける答えは、まだ出せません」
リゼリアは古い契約書へ手を置いた。
「ですが、政治の必要がなくなったからといって、あなたの隣の席を元へ戻したくはありません」
今までなら、国のためという言葉が先に置かれた。
今夜は置かれなかった。
「俺も、契約がなくなったから離れたいとは思ってません」
湊は逃げずに答えた。
婚姻でも、恋人という名の確定でもない。
それでも、国の話を外したあとに二人とも残る方を選んだ。
湊は契約書の末尾を見た。
二人の署名が並んでいる。
「今夜は、破棄しません」
「……はい」
リゼリアは契約書を畳み直した。
ほっとしたように見えたのは、たぶん気のせいではない。
「ただし、この紙を政治の隠れ蓑へ戻しません。次に開く時も、国の都合だけで結論を決めない」
「今度は、条文だけでなく」
「わたくしたちが何を残したいのかを、です」
その時、扉を叩く音がした。
「夜間警護の交代を伝えに来た」
扉の向こうからカナンの声がする。
リゼリアが入室を促すと、カナンは机の上の契約書を見た。
「話は決まったのか」
湊は二人の前で、もう一度言葉にした。
「政治を外しても、俺たちは離れない方を選んだ。契約書は、今夜は破棄しない」
カナンは畳まれた紙を見てから、湊へ視線を戻した。
「決めた後で聞かされるのは気に入らない。だが、前よりはましだ」
カナンはそこで一度、湊だけを見た。
「次は私にも、仕事の話へ逃げずに言え」
「言う」
今度は、装備の話へ逃げなかった。
カナンは短く頷き、廊下の奥へ歩いていった。
机の上には、役目を分けた二通の契約が残る。
一通は国と職人の仕事を支え、もう一通は、政治を外しても離れなかった二人の現在地を預かっていた。
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