第102話 ベルノルトの椅子
ベルノルトが使っていた執務室は、主を失っても整いすぎていた。
棚の帳簿は高さまで揃い、机上の筆記具は一本も乱れていない。
窓辺の鉢植えだけが水を失い、葉の先を茶色くしている。
「この部屋、嫌いです」
リゼリアが扉の前で言った。
「珍しく率直ですね」
「今さら取り繕う相手もいません」
宰相補佐として二十年以上、王城の実務を握っていた男。
穏やかな顔で誰の話にも耳を傾け、その裏で青鷹の網を育てていた。
ベルノルトの身柄は王城地下にある。
だが、彼が動かしていた仕事は消えない。
各局の調整、王命の文案、他国使節との日程、地方から上がる陳情の振り分け。
空席のまま放置すれば、王城の流れは数日で詰まる。
すでに兆候は出ていた。
厨房の薪購入に必要な決裁が止まり、北門の交代表は古いまま、地方へ返すはずの書簡が宰相府の箱で眠っている。
今では誰もが、ベルノルトを信じていなかったような顔をしている。
それでも、誰もが彼の仕事へ寄りかかっていた。
悪人を捕らえれば、その男がしていたことまで消えるわけではない。
空いた穴は、正しかった仕事と悪事を区別せず国を呑み込む。
机の向こうには、大きな椅子が一脚だけ残っていた。
座る者はいない。
それでも部屋へ入った人間の目は、最初にそこへ吸い寄せられる。
「椅子って、空いてる方が目立つんだな」
「権力も同じです」
すでに数人の高官が、後任を推薦する書状を持ち込んでいる。
自薦こそないが、実質はどれも同じだった。
ベルノルトの逮捕直後、執務室は司法局によって封鎖され、公文書と私物の目録も作られていた。
今日は、引き継ぎから漏れたものがないかを確かめる再点検だった。
湊は椅子を避け、机の横へしゃがんだ。
目録から漏れた品がないか確かめるため、収納を一つずつ確認する。
上段には公文書。中段には未使用の封蝋。最下段は空だった。
「空?」
奥行きが、外から見た机の寸法と合わない。
湊は底板を指で叩いた。
手前と奥で音が違う。
細いへらを継ぎ目へ差し込むと、薄い板が持ち上がった。
隠し底の下に、一冊の帳簿がある。
黒い革表紙には題名がなく、王城の封印とベルノルト個人の印が二重に押されていた。
リゼリアが立ち会いの司法書記へ視線を送り、部屋の扉を閉めさせる。
司法書記が二つの封印の状態を記録し、リゼリアの許可を得て切ると、中身は人事と予算の覚書だった。
どの官吏をどこへ移すか。どの局へ、いくら不足を作るか。表の命令には残らない王城の流れが、細かな数字で記されている。
「青鷹の裏帳簿でしょうか」
「たぶん。でも、全部ベルノルトが書いたわけじゃない」
湊は数頁を並べた。
文字の形はよく似ている。
一見すれば同じ書記が清書したように見えた。
だが、紙へ残る圧が違う。
ベルノルトの筆跡は、縦線の終わりで力を抜く。
別の頁では、縦線の終わりで必ず筆先が沈み、紙の裏へ小さな盛り上がりを作っていた。
頁の後半へ進むほど、文字の間隔も狭くなっている。
「真似た字です。少なくとも、もう一人いる」
「誰かを庇っている。あるいは、誰かがベルノルトを使っていた?」
湊は頁の端に残った穴へ目を留めた。
一度綴じた紙を外し、別の帳簿へ移した跡だ。
黒い帳簿だけでは記録が完結していない。
「これも一冊で終わりじゃない」
「捕らえたのは頭目でも、網は残っているということですね」
同じ筆跡を使う誰かが、今も王城のどこかで書類を作っている。
答えを探す前に、廊下で紙の落ちる音がした。
扉を開くと、灰色の官服を着た男が散らばった書類を拾っている。
三十代半ばほど。痩せた顔に細い眼鏡を掛け、こちらを見ても慌てる様子がない。
「失礼しました」
男は最後の一枚を拾い、紙束の角を揃えた。
「元書庫補佐のユスト・ハイムです」
リゼリアの目が細くなる。
「元、というのは?」
「今朝付で宰相府の臨時整理官を拝命しました」
聞いていない人事だった。
ユストは驚きも敵意も見せず、湊の手にある黒い帳簿へ一度だけ目を向ける。
あまりに短い視線で、逆に見落とせなかった。
「その帳簿も、目録へ?」
湊が尋ねる。
「内容次第です。証拠品なら司法局へ。行政記録なら宰相府へ。私物なら収監者の財産目録へ」
正しい。
正しすぎて、何を考えているのか読めない。
ユストは抱えていた紙束を机へ置いた。
「ベルノルト卿の担当書類は、私が引き継ぎました」
空いた椅子には座らない。
見向きもしない。
ただ、その前へ必要な書類だけを積み上げていく。
「任命したのは誰ですか」
湊が尋ねた。
「宰相府に残った評議員七名の連署です」
誰か一人の推薦なら、背後を疑えた。
七名全員となれば、責任の所在は薄くなる。
「ベルノルトの下で働いていたのですか」
「書庫から求められた資料を渡していました。資料請求を受けたことも、規程に合わず退けたこともあります」
「書庫の外の実務は、どこで覚えたのですか」
「学舎にいた頃、エルバン男爵家の台帳整理を手伝いました。男爵は、私の就学身分を保証してくださった方です」
恩人の名を口にしても、ユストの表情は変わなかった。
ただ、紙束の角を揃える指が、その時だけ少し緩くなった。
味方とも敵とも言わない。
ユストは書類の一番上へ、止まっていた厨房の薪購入書を置いた。
「疑うのはご自由に。ただし、城の火は疑いが晴れるまで待ってくれません」
王城の流れを止めないために来た実務官。
それとも、ベルノルトが残した最後の糸。
湊は黒い帳簿を閉じた。
主を失ったはずの部屋で、椅子だけが次に座る人間を待っていた。
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