第101話 まだ直すべき場所の一覧
北西鉱山区の木札には、昨日つけた太い丸が残っていた。
順番は、もう決まっている。
だが翌朝の作戦室では、その丸を囲んで、各局から呼ばれた担当者が一歩も引かずに睨み合っていた。
「南河の十二村に、また待てと言うのですか」
農務局の官吏が、泥の乾いた小さな器を机へ置いた。
支流の水位を測るため、村で使われている器だという。内側には古い傷が一本。少なくともそこまで水が来た、という印だ。
「三枚あった苗床を、一枚に減らした家があります。残した一枚へ水を回すために、他の二枚を乾かした。鉱山が急ぐことは理解できる。でも、理解できれば腹が減らないわけではありません」
「西街道の薬師組合からは、荷重制限で薪と薬が別の荷車になったと。運び賃は二倍です」
工務局の担当者も譲らない。
「橋が落ちれば、鉱山へも南河へも職人を送れません」
どの言葉にも、昨日の決定を覆しうる重さがあった。
どれも現地で起きている痛みを正しく伝えている。
長机の上を埋めているのは、ルーメリア全土から届いた修繕要望だ。
崩れかけた橋。古い水門。足りない穀倉。止まりやすい街道中継器。魔獣除けの切れた村。
同じ村から別々の役所を通して三通届いたものもあり、重複を消しても百五十を超えている。
「昨日、北西鉱山区からと決めました」
リゼリアが、重なる声を断ち切った。
「その決定は変えません」
作戦室が静まった。
不満は残った。その行き先を、王女の言葉が引き受けた。
公開裁定のあと、国王は病床から復興監督権を娘へ委ねた。
水利・工務・街道、およびそれに付随する契約と予算を臨時に束ねる権限だ。
この机で決めたことは、ほとんど王命に等しい。
だからこそ、「皆で決めた」という言葉の陰へ隠れることもできない。
「優先を決めたのはわたくしです。南河を待たせ、西街道に制限を強いる責任も、わたくしにあります」
「なら、今日の会議は何を決めるのです」
若い官吏が尋ねた。
声には、責める響きより答えを求める切実さがあった。
「後回しにする場所を、待つ間どう支えるかを決めます」
リゼリアは答えた。
「期日のない『いずれ』は、見捨てるのと同じです。待つ間に何を守るか。いつ判断を見直すか。誰が現地で説明するか。それを、今日は一件ずつ決めます」
紙の山はそのまま残った。
代わりに、そこへ書かれた人間の痛みが前よりはっきり見えた。
湊は地図の脇へ白紙を三枚並べた。
一枚目に、いつまで待つか。
二枚目に、待つ間に死なせないもの。
三枚目に、順番を変える条件。
「『応急処置で持たせる』だけで終わらせたくない」
昨日の会議で、後回しの場所をそう整理した。
橋は荷重を落とす。水門は監視を増やす。街道は迂回路を示す。
応急処置としては必要だ。だが、「持たせる」の中で燃料費を払い、水を汲み、荷を積み替えるのは、地図に名前の出ない人たちだ。
「持たせるにも、人と金が要る」
湊は言い直した。
「南河には三日以内に測量班を出す。調査が終わるまで、王家の救援備蓄から、当座の食糧として麦を先に送る。失った苗の補填は、水が届かない原因を確かめてから決める。新しい固定設備も、それまでは増やさない」
「西街道は、薪と薬の追加運賃を一か月分、復興費から出します」
リゼリアが即座に続けた。
「橋脚の沈下が一寸増えた場合は使用停止。その時点で、鉱山の資材配分を見直します」
南河には水位。
西街道には橋脚の沈下。
港には冬場の倉庫湿度。
曖昧な「危なくなったら」を、具体的な数字へ置き換えた。
どこまで悪化したら昨日の決定を見直すか。それを先に書いた。
扉が開き、冷たい外気と一緒にカナンが入ってきた。
外套には朝露が残り、片手には北方偵察隊から届いたばかりの封書があった。
「北方からですか」
「今朝届いた。決定は、もう伝えたか」
カナンは北西の太い丸を見た。
「今朝、各地へ」
「なら、決定はそのままでいい。北の報告だ」
カナンは国境線の外側へ、小さな黒石を三つ並べた。
「帝国の偵察は減ってない。でも、旗を見せなくなった。足跡も消す。こっちの巡回と正面からぶつからない距離を覚え始めてる」
「撤退と見てよいのでしょうか」
「逆だ。静かすぎる」
相手は次に使える隙を測っている。
ルーメリアがどこへ資材を回し、どこを後回しにするか見ている。
百五十の傷を全部塞げないと知ったうえで、次に開く傷口を選ぼうとしている。
それでも、優先順位を示す丸は動かさなかった。
湊は黒石の位置を別紙へ写し、地図の余白には何も足さなかった。
今は印を増やすより、待つ人々の顔と負担を把握する段階だった。
「説明は、誰が行くんです」
農務局の官吏が尋ねた。
リゼリアは、すでに封をした命令書を持ち上げた。
「各地へは担当局長を行かせます。書面を読むだけではなく、現地の人が待つ間に何を失ったのか、その人たちの言葉で報告させます」
それから、机の端の小さな器を見た。
「南河の調査班とは毎日、通話板を繋ぎます。わたくしは帝国の動きへの対応で王都を離れられません。ですが、待たせることの責任まで、現地の人へ預けはしません」
変えない決定を王城から届けるだけで終えず、現地で生じる負担まで追うためだ。
北西鉱山区の丸は、最後まで一つだけだった。
その日、地図へ引く新たな線はゼロだった。
丸の外側には、期日と費用と、説明に行く人間の名前が一つずつ増えた。
地図は同じでも、待たせ方まで昨日のままではなかった。
毎日21時更新予定。お気に入り登録ぜひよろしくお願いします。




