73.やる気がない
昔から、私はやる気がなかった人間のように思います。何かに対して情熱的に取り組んだ記憶がろくにない。
一瞬、わずかな間は情熱を持ってやったことがあるような気もするけれど、少しすればすぐに怠惰な状態に移り変わる。受験勉強もろくに頑張れなかった。
がんばったなあ、と思えるのは小学校六年生の時に走った100m走かな。実力が均衡した友人がおり、一緒に走ると「負けたくない」と思って頑張って走った記憶がある。
まあ、その程度。
それと高校で物理のテストを友達と勝負して頑張ったことぐらいだろうか。試験範囲を何回も何回も復習して、試験は楽勝だったけれど凡ミスで96点とかで惜敗した記憶がある。
これぐらいだ。
私は、人と競争するときにぐらいしか頑張れないようだ。もっとも、人と競争しても頑張れなかったことの方がはるかに多いのだけれど。
やる気がどうしてこんなにもないのか。考えてみると、やる気の枯渇の原因は「めんどくさい」という感情だ。
小説を書きたいな、と思ってパソコンの前に座っても、小説を書かずにだらだらとネットを放浪するのは、小説を書くことよりもネットサーフィンの方が楽だから。
それはつまり、私は楽な方へと流れることを意味している。楽な方へ楽な方へと流れていって、最後は流れが止まった場所でぷかぷかと浮いているだけという状態になる。
さもありなん、といった話だ。珍しい話ではないだろう。多かれ少なかれ、人はこんなものだと私は思う。
楽な方へと流れて損をするのは自分だけれど、流れに抗うよりは流れに従う方が楽なのだろう。だから、そうやって今まで生きてきたのだ。
最近は、この流れに逆らって生きていけているかな、と思う。昔は、それはもう怠惰に流されていたけれど、最近は少しずつだけれど抗えるようになってきたと思う。昔の自分よりは成長したのか、それともただの老化というものか。
老化も成長も紙一重。どちらに捉えるかは自分次第ではあるのでしょう。
今の私が思うのは、「めんどくささ」と折り合いをつけながら、だらだらとやっていくしかないな、ということです。
生来の怠け癖を完璧に直すことはまず無理だろう。完治させるのではなく、それを否定することなく、共に過ごしていくしかないのだろうな、と思えるのは年月を重ねて少し大人とやらになったからなのかもしれない。
否定したところで、無くせない。直すことも難しい。ならば、折り合いをつけて生きていくしかないのでしょう。




