52.祈るという行為
個人的には祈りを捧げるという行為がよく分からない。願うとは何だろう。心の中で『神様、どうか僕の頭を良くしてください』と思うことは、願いだろうか。
祈り、という言葉を見ると頭に思い浮かぶのは十字架や何かに対して、両手を組んで瞳を閉じている女性の姿。
不思議なことに、そうしている姿を見るだけで祈っているように感じられる。しかし、祈りというのはその様なポーズをするということなのだろうか。
個人的には違うと思いたい。
けれど、祈るという行為には大抵の場合、決まった様式があるように思う。神を讃える歌というのも、祈りに通じる様なモノを感じられる。
祈るという行いは、けして何かポーズを取らなければならない訳じゃないだろうし、そうではないと信じたい。
祈る神など居ないけれど。
個人的には、神を信じているか、と問われればNOと答えるけれど、神を信じていないか、と問われてもNOと答えると思う。
日本人的気質っぽく、灰色の領域が好きなのです。
居るか居ないか、どちらかに決めたくはない。居てもいいし、居なくてもいい、けれど居てほしいなあ、とは思う。そんな曖昧な気持ちでいます。
願いや祈りという種のモノは、けしてポーズで判断されるべきものではないし、他者に対して示すものでもなく、自分の心の内で完結して然るべき行いだと思います。
それが個人的な理想。
けれど、理想というのは得てして現実とは遠いところにある。もっとも、遠い場所にあるからこそ理想と呼ぶのかもしれません。
ところで、祈るという行為に付随するイメージで両手を組み合わせるというのには、いったいどんな意味があるのですかね。
そう思ってグーグル先生に訊ねたところ、祈りのポーズには幾らかの変遷があったようです。
祈りを捧げる、という言葉には少し思うところがあります。捧げる、ということはつまり『祈り』を対価としている様に個人的には思うわけです。
しかし、そう考えると少し『祈る』という行いが浅ましく感じてしまう。やっぱり、祈りというのは個人的には潔白、清廉という様なイメージのままで居てほしい。
だから、この捧げるという言葉の解釈を変えてしまえば、そのイメージを保てると思い、捧げるという意味を『無償で相手に委ねる』という意で捉えれば、祈りという言葉に対する聖なるイメージを崩すことなく維持できるかな、なんて。
しかし、今回は随分と非常に独りよがりなエッセイになってしまった気がする。けれど、今さらな話な気もします。




