Chapter 3 違う強さ
先の教材運びの一件以来、学内の雰囲気が目に見えて変わった。
事の経緯は単純化され、「平民生徒が貴族生徒へ逆らった」「エーレンフェルト家の養子が平民を庇った」という形で噂が広がっていた。
一部の平民生徒には、「今までは貴族生徒に従い過ぎていたのではないか」という意識が生まれた反面、一部の貴族生徒には「最近、平民が妙に強気になった」と映るようになっていた。
とはいえ、所詮は学生同士の諍いである。
大仰な階級闘争ではなく、廊下ですれ違えば睨み合う、
以前なら流していた一言に言い返す、
頼み事を断られれば「生意気だ」と受け取る、といった小さな意地の張り合いに留まっていた。
双方とも、根には「舐められたくない」という意識があり、外から見ればまだ学生らしい戦争ごっこの範囲にある。
そんなある日の休み時間。
アリスが自席で趣味の恋愛小説を読んでいると、エレノアがやってきた。
「最近、校内が険悪ですねえ」
「ええ」
「アリス様は大丈夫ですか? 普段から相手を問い詰めてばかりいると、こういうときの報復が怖いですからねえ」
「……あのですね」
相変わらずの軽口に額を押さえ、小説を閉じる。
「ふふっ。ですが、アリス様も心配では?」
「はい?」
「彼です」
「……ああ。それは、まあ」
二人がユーグを見ると、当の本人は自席に座ったまま、腕を組んで寝ている。
「……大物ですねえ」
「……わかっていないだけでしょう」
その後も険悪な空気は続き、二週間ほどが過ぎた後、それは起こった。
「ユ、ユーグ! よかった、ここにいた!」
放課後、慌てた様子で男子生徒が教室に飛び込んできた。
先日、教材運びを手伝った平民生徒だった。
「どうした?」
「講堂裏に来てくれ! 大変なんだ!」
「…わかった」
ユーグはそれだけ言うと席を立ち、平民生徒の後に続いて教室を出た。
(何があったのでしょう?)
アリスも席を立ち、二人の後を追った。
アリスが講堂裏へ回ると、五人の男子生徒が、一人を囲んでいた。
アリスは講堂の角に身を寄せ、様子を伺う。
囲まれているのは、先日ユーグに腕を掴まれた貴族生徒だった。
その集団へ、ユーグと先日の平民生徒が近づいていく。
「なんだよ。いなくなったと思ったら、ラグナード殿を呼んできてくれたのか!」
二人に気づくと、五人の男子生徒たちの表情が明るくなる。
ユーグが先日の平民生徒を見る。
「お、俺…今までのことで文句を言いに行くって誘われて…でも…こんなことになるなんて思わなくて…だから!」
震えながらユーグに説明する。
(そういうことですか…)
アリスは状況を理解した。
まず、貴族生徒を囲んでいるのは平民生徒たち。
今までのこととは、先日の荷物持ちを始めとした、身分を理由とした不当な要求のことだろう。
初めはどういうつもりだったかは不明だが、現実に起きているのは、一人を複数人で取り囲み、今にも暴行を加えかねない状況である。
「…そうか」
ユーグが囲まれている貴族生徒を見ると、貴族生徒は息を飲み、ユーグから視線を逸らす。
そして、自分を囲む平民生徒たちに向かって言い放つ。
「…ふん。一人相手にこの人数でないと、怖くて話もできないか? これだから平民ってやつは…」
「何だと?!」
「その通りじゃないか!――ラグナードが来たのを見て、随分ほっとしているように見えるぜ!」
「てめえ!」
ついに一人の平民生徒が、貴族生徒に掴みかかった。
(――これ以上は!)
もう様子を見ている場合ではない。アリスは反射的に飛び出した。
先日と同じく、ユーグはきっと止める。それでも、何もしないわけにはいかない。
「待て」
その声を聞いてアリスはほっとした。
ユーグが掴みかかる平民生徒の腕を掴んでいる。
やはり、この男は弱い立場の者を放っておけないらしい。
アリスは、さすがはエーレンフェルト侯が見出した人物だと嬉しくなった。しかし、
「な、何で?! こいつらが今まで何をしたか――」
「知らん」
「だ、だったら!」
「俺は詳しい事情を知らん。だから、確認したい」
(……え?)
ユーグの言葉を聞いたアリスは、一瞬思考が止まった。
先日の一件が脳裏によみがえる。
『どうする?』
『この手、どうすんだ?』
アリスは、ユーグは「弱い立場の者を放っておけない人」なのだと思っていた。
それ自体が、完全な間違いだったわけではない。
荷物運びに困っている生徒を手伝い、手を出されそうになれば止めた。
今も、複数人による一人への暴行を止めている。
だが、ユーグは「弱い立場の貴族生徒」の側に立っているわけではない。
ただ、相手の考えを確かめ、その意図を勝手に決めつけていない。
相手の身分や立場、その場の構図に、自分の判断、そして行動を縛られない。
ユーグは、まさにアリス自身がそうでありたいと思っていることを、一貫して実行している。
今の自分には、ここまで徹底できる自信はない。
アリスは、その一貫性に、自分にはまだない強靭さを感じた。
(…すごい)
それとは別に、アリスは違和感を覚えた。
(……私は、何を見ていた?)
入学式の日、アリスには一つの疑問があった。
なぜ、エーレンフェルト侯は彼を養子に迎えたのか。
その答えが知りたくて、ユーグを見ていた。
そして、自分なりの答えを見つけたと思った。
(弱い立場の者を放っておけない。侯も、その在り方を尊いと考えたから、彼を養子に迎えたのだと、私は……そう思った)
(私は、彼自身を見ているつもりで、侯が彼を選んだ理由を探していた?――いえ、それだけならまだしも…)
(見たものから、侯の判断理由まで勝手に推測し、それで納得していた?)
(そして、それで彼をわかったつもりになり、勝手に好感まで覚えていた?)
『知らないことを、知ったつもりになるな。自分の目で見て、それから考えよ』
故エーレンフェルト侯の言葉がよみがえる。
(私は、何も考えられていなかった…。見たものを、侯の判断理由にまで勝手に結びつけ、それを答えにしていた…。――これでは、フェリクスと同じではありませんか…!)
アリスは生まれて初めて、穴があったら入りたいという感情を理解した。
「何をしている!」
鋭い声が講堂裏に響く。クラス担任のディートリヒ教官だった。
アリスと同じく現場を見ていた女生徒が呼んだらしい。遠巻きにこちらを見ている。
教官は集団の中に体を入れ、平民学生たちを引きはがした。
「事情は知らんが、一人を複数人で囲み、しかも暴行を加えようとは何事だ!」
一喝された平民学生たちが委縮し、下を向く。
「…ふん」
貴族学生は襟元を正し、勝ち誇ったような顔をする。
そのときだった。
「教官、待ってください」
教官を呼んだのはアリスだった。
「何だ、リンバウム」
「今回の件について、彼らに処分が必要なことは理解します。――ですが、そもそもの発端についても確認されるべきではないでしょうか?」
「…発端?」
「今回の暴力未遂と、それ以前から続いていた問題は、切り分けて考えるべきかと思います。
教材の運搬や訓練器具の片付けなどを、一部の学生へ押しつけていたと聞きました。――それが事実なのかも含めて、確認すべきではないでしょうか」
さっきまで勝ち誇っていた貴族生徒が、ばつの悪そうな顔で視線を逸らす。教官はそれを見逃さなかった。
「…なるほど。その話も後で聞こう。とにかく、全員職員室へ来るんだ」
「教官! 二人は違います! ユーグもアリス様も、俺たちを止めに来ただけです!」
先日の平民生徒が慌てて声を上げる。
「……そうか。リンバウム、ラグナード。お前たちには明日話を聞く」
ユーグが平民生徒を見ると、彼は苦笑いを浮かべた。
その後、平民生徒たちと貴族生徒が、教官に連れられていった。
アリスが一息吐く。
立ち直ったわけではなかったが、不当な裁定を見逃す理由にはならなかった。
「そこまで見るんだな」
「…え?」
アリスが声の方向を向く。ユーグが立っていた。
「発端のことだ」
「…ああ」
今度はアリスが質問する。
「…見ないのですか?」
「俺は、そこまで深くは見えていなかった」
「…そうなのですか?」
「ああ。お前、すごいな」
アリスは驚き、返事に詰まる。
お世辞でないことはすぐにわかった。ユーグは、まっすぐにアリスを見据えている。
ついさっきまで、アリスはユーグの判断の一貫性に感嘆していた。
そのユーグが、今度は自分が当然のように見ていた範囲を「すごい」と認めている。
アリスは、ユーグのことを「自分とは違う強さを持っている相手」だと感じた。
入学式の壇上を思い出す。自分の知らない人を知るために、アリスは士官学校へ来たのだ。
「…これからも、一緒に学んでいければ嬉しいです。――ラグナード君」
「ユーグでいい」
「…ふふっ。では、私のこともアリスと呼んでください。ユーグ」
アリスがユーグの方へ歩み寄り、手を差し出す。
「わかった。アリス」
ユーグはそう言うと、アリスの手を握り返した。
第五章 見たつもり 完




