Chapter 1 知らない人
――大陸歴一四一年、陽炎の月(七月)、ローレライ王国東部。
アリスとエレノアが、軍馬で荒野を駆けていた。
天気は快晴。風も少ない。
蹄の音だけが荒野に響いていた。
(あの日も、こんな天気でしたね…)
アリスは軍馬を走らせながら、ユーグと初めて出会った日を思い出していた。
――大陸歴一三七年、白鹿の月(四月)、ローレライ王立士官学校、大講堂。
「――この士官学校で学ぶ日々が、私たち一人ひとりにとって、実りあるものになることを願っています。――新入生代表、アリス・フォン・リンバウム」
アリスが一礼すると、盛大な拍手が起こった。
顔を上げたアリスが、壇上から新入生たちを見渡す。
(ここには、私の知らない人が大勢いる)
数年前、実家の公爵邸で聞いた言葉を思い出す。
『知らないことを、知ったつもりになるな。自分の目で見て、それから考えよ』
背筋を伸ばし、壇上から降りる。
(自分の目で見て、考えます。そうすれば、もっと正しくお父様をお支えできる)
(私は、ここへ来てよかった)
入学式を終え、新入生を含む生徒たちが教室に戻る。
授業は明日から開始されるが、これから担当教官による案内が予定されている。
それまでの空き時間、新入生たちは早くも互いの自己紹介を始めていた。やがて話題は、出自や家柄、親しい家同士の関係へ移っていく。
士官学校は教育機関であると同時に、卒業後の配属や推薦、人脈形成にもつながる、小さな政治社会でもあった。
そんな中、一人だけ、自分の机に座り、腕を組んで目を閉じている生徒がいた。
座っていても、十六歳とは思えないほど大柄なのがわかる。
「あれがエーレンフェルト家の養子か」
「でも、灰溜区の出身らしい。父から聞いた」
「実技試験では、かなり目立っていたらしい」
少し離れたところで、新入生たちがひそひそと話していた。
アリスも、自分への挨拶に集まった新入生たちへ応対しながら、その生徒を見ていた。
すると、ある男子生徒がその席へ近づき、声をかけた。
大柄な生徒は姿勢を変えずに目を開け、男子生徒へ視線だけを送る。
「エーレンフェルト家の養子らしいな。でも、元は灰溜区の孤児らしいじゃないか」
「そうだな」
低く、それでいてよく響く声だった。あっさり認め即答する。
男子生徒は想定外だったのか言葉に詰まるが、続ける。
「いくらエーレンフェルト家に入ったからって、元は灰溜区だろ。あまりいい気になるなよ。僕たちとは血筋が違うんだ」
「そうか。よくわからんが、覚えておく」
「な、なんだと…?」
「?」
気色ばむ男子生徒を見て、男は少し困惑した表情を浮かべる。
(…怒らないのですね)
アリスは、灰溜区出身であることや、大柄な体格から、もっと気性が荒い人物だと想像していた。
(それにしても、随分と挑発的な――いえ、もしかして、本当にわかっていない?)
男の困惑した表情に、芝居がかったところはない。
どうやら本当に、思ったことをそのまま口にしているらしい。
男子生徒はしばらく男を睨みつけていたが、やがて挑発的な笑みを浮かべた。
「ふん。エーレンフェルト侯も、随分と物好きなことをしたものだ」
それが引き金だった。
周囲がざわつく。
怪訝に思った男子生徒が横を向くと、そこには真顔のアリスが立っていた。
「…ア、アリス様?」
ローレライ建国貴族の一柱、リンバウム公爵家。
その令嬢であるアリスが、真顔で男子生徒を見据えている。
「……今の発言は、少々聞き捨てなりませんね」
静かな声だった。
それでも、隠しきれない怒気が含まれていることが、男子生徒にはわかった。
男子生徒は、固まったまま動けない。
「物好き、ですか。――つまりあなたは、彼を養子に迎えた侯の判断に、相応の理由がなかったとおっしゃるのですね?」
「い、いえ、そこまでの意味では…」
「では、どういう意味でしょう?」
男子生徒は、アリスが怒っている理由をこの時点で理解した。
エーレンフェルト侯とリンバウム公が懇意であったことは、政界ではよく知られていた。
その侯の判断を、公爵令嬢の目の前で「物好き」と評したのだ。
少なくとも、リンバウム家に快く受け取られる発言ではない。
そんな簡単なことを、頭に血が上り忘れていたのだ。
だが、アリスが怒っている本当の理由は、それではなかった。
「それとも、本当の理由を知った上で、物好きと評したのでしょうか?――であれば、その理由を教えてくださいませんか?」
「も、申し訳ありません…。軽率な発言でした」
「では、その発言は取り消されるのですね?」
「は、はい」
「そうですか。そろそろ教官が来られる頃かと思います。席に戻られては?」
「し、失礼します!」
男子生徒が素早く頭を下げ、自分の席へ戻る。
いつの間にか周囲も静まり返っていた。
ほどなくして、他の新入生たちも自席へ戻っていく。
アリスは一息吐くと、男が自分を見上げていることに気づいた。
「その…ラグナード君ですよね?」
「ああ」
「エーレンフェルト侯には、以前何度かお話を伺ったことがあります」
「親父を知っているのか?」
「お、親父…ですか?」
「養父だからな」
「そ、そうですね」
アリスは一瞬言葉に詰まったが、続ける。
「侯が亡くなられたことは伺っています。ご病気だったのですか?」
「ああ。俺を拾ったときには、もうだいぶ悪かった」
「…あなたを養子に迎えたときから?」
「ああ」
アリスは、すでに重い病を抱えていたエーレンフェルト侯が、なぜその時期に灰溜区の孤児を養子に迎えたのか、理由がわからなかった。
しかも、当の養子は家督を継いでいない。先ほどの男子生徒ではないが、物好きと捉えた方がわかりやすくもある。
だが、アリスには、あのエーレンフェルト侯がそのような道楽をする人物だとは、どうしても思えなかった。
「……もう一度、お会いしたかったです」
「そうか」
それを最後に、アリスも自席へ戻った。




