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Chapter 1 アリス・フォン・リンバウム


――大陸歴一四一年、陽炎の月(七月)、ローレライ本国、軍総統府・軍務局、士官執務室。



机の上に置かれた書類を、アリスは一枚ずつめくっていた。

数字を追い、添付された表へ目を移す。二枚戻って確認し、また先へ進む。

淡い金髪は後ろで簡素にまとめられ、頬にかかる髪がかすかに揺れる。

向かいに立つ若い三等士官が、落ち着かない様子でその手元を見つめている。

やがて、アリスが最後の一枚を机へ置き、三等士官へ告げる。


「以前より整理されていますね」

「…はい?」

「前回は地域別と部隊別の数字が混在していました。今回は分けてあります。推移も見やすいです」

アリスはもう一度、書類へ目を落とす。

「これなら比較に時間を取られません。ありがとうございます」

顔を上げ、ふっと笑う。

「助かりました」

「――っ!」

三等士官の背筋が、目に見えて伸びる。

「は、はい! ありがとうございます!」

「?」

返事がやけに大きかったのか、アリスがわずかに首を傾げる。

すると、アリスの机の右斜め前、自分の書類を処理していたエレノアが顔を上げる。

肩までは届かない、ゆるくウェーブのかかった銀髪が揺れる。


耳を赤くした三等士官が退室する。アリスはもう次の書類を手に取っている。

エレノアが小さく息を吐く。

(……また一人)

「エレノア?」

「いえ、何も」

アリスが顔を向けると、エレノアは何事もなかったように笑顔を返す。

「そうですか」

すると、扉が二度叩かれ、軍の職員が入ってくる。

「失礼します。リンバウム二等士官」

アリスに向かい、どこか申し訳なさそうに告げる。

「局長がお呼びです」

「私を?」

「はい。先日提出された報告書についてお話があると」

「ああ」

アリスは思い出したように頷く。

「分かりました。すぐに伺います」


職員が退出すると、アリスは机の上を手早く整え、立ち上がる。

「では、向かいます」

「はい」

エレノアも立ち上がる。なぜか、口角が上がっている。

「…何です?」

「いいえ。何でもありませんよ」

「?」

アリスは少し不思議に思いながらも、エレノアを伴い局長室へ向かった。


「リンバウム二等士官、ならびにヴァイスハイト三等士官、参りました」

「……入りたまえ」

軍務局長室へ足を踏み入れた瞬間、アリスはわずかに眉を動かした。局長の顔色があまり良くない。

局長机の上には、アリスが三日前に提出した報告書が広げられている。

「座りたまえ」

「はい」

アリスが局長の前に腰掛ける。エレノアはその斜め後ろに立つ。

局長は報告書へ目を落とし、しばらく黙っていると、やがて重そうに口を開いた。

「……リンバウム君」

「はい」

「私は君に、東部駐屯地の補給状況を調べるよう命じた」

「はい」

「補給状況そのものについては、よくまとまっている。物資の供給は概ね安定している。問題点も明確だ。改善案についても、現場から実行可能との回答を得ている」

「ありがとうございます」

「そこまではいい」

局長が顔を上げる。顔が青い。


「なぜ、そこから過去八年分の輸送契約まで調べたのかね?」

「今年度の輸送費が、前年度より増えていたからです」

「……うん」

局長がわずかに視線を落とすと、アリスが続ける。

「ですので、参考までに、前年度とその前の年度の輸送費も比較しました」

「……それで?」

「今年度ほどではありませんが、前年度も前の年度より増えていました」

「…………」

「ですので、さらに遡りました」

「……それで八年かね」

「はい」

アリスは報告書へ目を落とした。


「調べたところ、三つの中継拠点で、それぞれ特定商会との随意契約が長期間継続していました。各商会とも地域輸送の実績があり、契約形態そのものには合理性があります。ただ、契約価格と周辺地域の相場を比較すると――」


「読んだ。全部読んだ」


局長がアリスの説明を一旦制止する。何度も耳に入れたい内容ではない。

「では、今年度の輸送費が増えた理由も、これで説明がつくのかね?」

その上で、今度は別の質問をする。本当は聞きたくないが、立場上そういうわけにはいかない。

「いえ」

「違うのかね?」

「過去の長期的な上昇については、この随意契約でほぼ説明できます。ただ、今年度については臨時輸送も増えていますので、その影響を精査しています」

「……そうか」

「現時点の考察でよろしければ、報告は可能ですが」

アリスがわずかに身を乗り出す。なぜか少し楽しそうに見える。

「……いや、またの機会にしておこう」

「…そうですか」

局長が疲れた様子で答えると、アリスは少し残念そうな顔をした。


「では、お分かりかと思いますが」

「分かっている」

局長が両手で自分の顔を覆う。

「分かっているんだ……!」

アリスが瞬きをし、わずかに首を傾げる。

「…何か問題が?」

エレノアが顔をさっと横に向ける。かすかに肩が震えている。

局長はゆっくり息を吐く。

「……各商会は、現地の地方貴族から推薦を受けている」

「はい」

「随意契約だ。誰と契約するかは軍が決める。推薦元の許可が必要なわけではない」

「はい」

「だが、長年その推薦を受けてきた以上、今後は別の商会を使う可能性があるとなれば、何の説明もなしというわけにはいかん」

「承知しています」


局長が顔を上げる。

「……承知しているのかね?」

「はい」

局長は一瞬言葉を失いかけるも、再開する。

「……それだけではない。査定方式を改めるなら、財務当局、軍務局の兵站担当、東部方面軍、それから商会三社との調整も必要になる」

「はい」

「……それも?」

「承知しています」


「…………」

「そのため、推薦元への説明も含め、関係各所への調整案を別紙にまとめました」

アリスが報告書の一部を指す。

「……あるんだな」

「はい」

「……あると思ったよ」

局長が再び顔を伏せる。しばしの沈黙の後、再び口を開く。


「……これだけの部署を動かす。制度を改めるための費用や事務負担の方が高くつく可能性もある」

「はい」

「……それも分かっているのかね?」

「試算しました」

「…………」

局長の顔が固まる。


「現行の価格上昇が今後も続いた場合の支出増加額と、査定方式の改定および再調整に要する費用を比較しています」

「…………」

「二年以内に改定費用を回収できる見込みです。その後は、現状を維持するより支出を抑えられます」

「……それも別紙かね?」

「はい」

「……そうか」

その眼には生気がない。


しばしの沈黙が訪れる。

アリスは局長の言葉を待ち、エレノアは直立したまま二人を眺めている。

「……君の指摘は正しい」

「はい」

「放置すべき問題でもない」

「はい」

「改善案も、おそらく妥当だ」

「ありがとうございます」

「だから困っているんだ……!」

「…なぜです?」

本当に、ただ理由を知りたがっている目だった。

エレノアが再び顔を横に向ける。やはり肩が震えている。

局長はしばらくアリスの顔を見つめた後、力なく椅子へ背を預ける。

「……いや、いい。進めよう」

「よろしいのですか?」

「止める理由がない」

「ありがとうございます」

アリスが一礼する。その後ろで、エレノアは局長へ少しだけ同情的な視線を送った。



二人が退室し廊下を歩いていると、エレノアが口を開く。

「そういえば、局長、また胃のお加減が悪化したらしいですよ」

アリスが足を止め、心配そうに局長室を振り返る。

「それは――今度、ヴェルド産の内服薬を届けましょう。よく効くと聞きました」

「…………」

「過酷なお立場ですからね。気苦労も多いはずです」

エレノアはアリスの横顔を見る。本気で心配している。一点の曇りもない。


(……うわあ)


「エレノア?」

「いいえなんでも。良いお薬だといいですね」

エレノアが笑顔を向ける。

「ええ。少しでも楽になればいいのですが」



数日後。

局長の机の上には、丁寧に包装されたヴェルド産の胃薬が置かれていた。

添えられた小さな紙には、端正な文字で一言、『どうかご自愛ください』とある。

局長はそれをしばらく見つめる。

「………いい子なんだ……いい子なんだが」


深いため息をついた後、薬を取り出した。

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