7.
楓が薬師神の腕に触れ、凪が袖を掴む。
「手は握りたくないってことか。まあいい」
薬師神が不敵に笑い、親指をパチンとならした。
直後、車内の風景がガラス細工のように一瞬で粉砕される。
視界が強烈にブレたかと思うと、次の瞬間には、世界の色と形がまったく別のものへと再構築されていた。
「……っと、お」
凪はぐらりと揺れた身体をどうにか踏みとどまらせ、大きく息を吐いた。
「電車から出れたことは感謝しますが、ここに連れてくるとは思いませんでしたよ」
ホワイテ・イディ八階。
普通のビジネスビルとなんら変わりないが、このフロアだけは医療施設だった。
訳ありの患者を診るための場所。
廊下の壁は無機質な白で統一され、微かに消毒液の匂いが漂っている。
「悪かったね。でも地下鉄の近くで惜しみなく能力を使っても問題ない場所といったらここしかないだろ」
「裏路地とかあるでしょう」
「最近は治安が悪くてな」
薬師神は悪びれもせずに肩をすくめた。
「えっと、ここは病院?」
くらくらしたのか頭を抑えて凪は周囲を見渡す。
「凪ならお世話になったことのある病院だと思いましたが、来たことはありませんか? 喧嘩や暴力団絡みになってくると怪我は大体ここで治癒されますが」
「俺は市民病院に......喧嘩した後はよく運ばれて、金取られる前に逃げて......」
いきなり人が三人現れたのに驚きもしない医療従事者や患者。
これがこの医療施設の日常茶飯事なのだ。
さて、と楓は薬師神の方を振り返る。
当の彼は無料の飲料スペースでコーヒーを注いでいた。
深みのある香りがあたりに広がる。
「本当に強引な方ですね......面倒な連中と言っていましたがそれが何か、教えてもらえますか」
「そう焦るな。見当がついてると思ったんだがな。朝のニュース、見ただろ? あれに関連する組織というべきか」
「ああ、あの政府の施設が攻撃されたっていう......」
凪が呟くと、薬師神は紙コップのコーヒーを一口啜り、笑顔を消して頷いた。
「そう、その襲撃犯たちさ。政府は未登録の能力者に対して、文字通り何の情報も握っちゃいない。泳がせて調査はしていても、個人の特定なんてハナからできてないのさ。国がマヌケで助かったな」
「......」
「とにかくその襲撃犯が、あのバッジを作ったんだよ。そしてあれは未登録者の証だ」
「待って、俺の情報が割れてるってことですか!?」
凪の背中に冷たい汗が伝う。
「襲撃した奴の組織――異夜だったか、あいつらはどうやってしてるかまでは分かってないが、国すら掴んでいない『未登録能力者のリスト』を勝手に作ってやがった」
「......なぜ、凪にバッジというマークを? 襲撃している時点で国にこの情報を売るというわけでもなさそうですし」
「利用だ。能力者を連中は集めている。凪くんを攫おうとしたってことだろう」
政府すら把握していない自分たちの存在を、その組織は炙り出していた。
ふと、楓は朝に助けた少年のことも思い出す。
(あの喘息の彼も――未登録の能力者だったのですね)
「……なんとなく理解したけど、電車が止まったのはなんでですか?」
「知るか。いずれにせよあのバッジは破壊した」
「凪は今、向こうにとっては行方不明ということですね」
「そういうこと。あのまま電車に乗ってたら、今頃お仲間の怪物どもが回収にきて、二人まとめて連れていかれてたかもな」
薬師神は人懐っこい笑みを少しだけ戻し、空になった紙コップをゴミ箱へ放り投げた。
「私にはバッジの目印がありませんが、私のことはバレていないのでしょうか」
医療従事者の目を気にして、小声で楓は薬師神に質問をかけた。
近くを通りすぎる看護師やお酒のにおいを漂わせる医者がこちらを気にしてちらちらと見てくる。
ここに来たのに、コーヒーを飲んで話しているだけなのも不自然に見えるのだろう。
「さあねえ。これでもだいぶ情報を渡したからな。これ以上は自分で調べるか、金で聞け」
「はあ、長居は無用ですね。これで失礼します。凪、行きましょう」
楓はすっと踵を返して、一階直通のエレベーターへと向かった。
「あ、行きます!」
凪も慌ててその後を追う。
異夜。
その名前を反芻しながら、二人は工房へと帰った。




