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#9¦神様の気まぐれ¦

 “彼女”はハッと目を覚ました。


 そこは何もない空間だった。


 自室のベッドでも、病院の病室でもない。無機質な白がどこまでも広がる果てしない虚空。足元さえ定かではなく、ただ浮遊するような感覚だけが彼女を包んでいた。


 痛みはない。事故の衝撃も何も残っていない。


 ――ここは、どこ?


 彼女が周囲を見回そうとしたその時。


「やっと目が覚めたんだね」


 柔らかく、どこか幼い声が響いた。


 彼女が声のした方へ視線を向けると、そこにいたのは少年のような少女のような10歳ほどの小さな人影だった。短い黒色の髪、透き通るような白い肌。性別すら定かではない、まるで人形のような容姿。だが、その瞳だけは不思議な深さを湛えていた。


 その存在は彼女と目が合うと、まるで生き別れた恋人と再会したかのように満面の笑みを浮かべた。


「会いたかったよ、ルナ。それとも……有明月乃と呼ぶべきかな?」


 ――。


 月乃の心臓が、ドキンッと鼓動した。


「あなたは……誰?」


 有明月乃は、警戒を込めて問いかけた。


 月乃のことを本名で呼ぶ人間は極めて限られている。毎日顔を合わす橘でさえ、珠莉でさえ、本名を知らない。ましてやこの存在とは、記憶力が特技の月乃でも、初対面だと認識している。


 小さな人影は、くすりと笑った。


「我の名はリツ。この国の神が、ひとりじゃ」


 ――神、ですって?


 月乃は眉を寄せた。目の前の自称神は、まるで子どもがおもちゃをねだるような無垢な笑顔を浮かべている。


 そして、リツは申し訳なさも罪悪感も一切感じさせない声でこう続けた。


「さっそくだが、お主の器を我におくれ」


 月乃は言葉を失った。


「……は?」


 リツは楽しげに語り始めた。


 ――自身が神でいることに飽きてしまったこと。

 ――だから、人としての生を謳歌してみたいと思ったこと。

 ――憑依する器を選べるなら、最初から見た目が良く、地位も財産もある人間を選んだ方が人生が楽だと思ったこと。


「人はこれをチートと呼ぶんじゃろ?」


 リツは、悪びれもせず笑いながら言った。


 そして、最後に。


「だからお主の運命を、ちょっとだけいじったのじゃ。事故が起きるようにの」


 ――神のただの気まぐれ。


 月乃は、静かに、しかし確実に怒りがふつふつと湧き上がるのを感じた。


「冗談じゃないわよ」


 声は低く震えていた。


 月乃にだって、まだやりたいことは山ほどあった。

――CLUB NOCTILCAで、3年連続1位を取ること

――『フロレンシアの誓約』を結末まで見守ること。

――いつか、結婚して、出産して、人並みの幸せを経験すること。

 他にも、たくさん。


 「私の人生を、あなたの都合で奪われたくない」


 月乃は、神に向かってはっきりと言った。


 しかし、リツは月乃の怒りをまるで理解していない様子で、首を傾げるだけだった。感情に疎い神にとって怒られる理由がわからないのだ。おそかれ早かれ人は死ぬ。それが今だったに過ぎないと。


「どのみち現実世界のお主の器はこのあと病院に運ばれてその生を終える。生き返るには我が器に入り内側から神聖力を使うしかないのだ」


 月乃は唇を噛んだ。


 ――だったら。


「だったら、このまま……あなたに奪われるくらいなら、潔く死んでやるわ」


 奪われるなんて月乃自身が許せなかった。


 リツはしばらく月乃を見つめる。


 やがて神は小さく笑いこう言い放った。


「器を差し出せば、お主の好きな『フロレンシアの誓約』の世界に行けるとしても?」

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