#8¦異世界転生はじまります¦
日付が変わり、月初め。
午前10時。
キングサイズのベッドに横たわっていた水城 ルナこと有明 月乃は、ゆっくりと目を開けた。
カーテンの隙間から照りつける光が、月乃の肌を刺激する。月乃は今の時刻が昼前であることを肌で感じた。昨夜の疲れは残っていない。むしろ数字が確定した安堵感が気持ちと身体を軽くしていた。
月乃はベッドから起き上がり、軽くストレッチをしながら洗面所へと向かう。洗顔、歯磨き、簡単なスキンケア。鏡に映る自分の素顔を眺めいつものように満足げに頷いた。
リビングに戻りソファへ腰を下ろす。広々としたリビングルームは、シンプルで無駄のないインテリア。
白を基調に、ところどころに置かれた推しのグッズが唯一の彩りだ。
テーブルの上には、愛用のノートパソコン。月乃はそれを起動し、昨夜のデータを入力し始める。
――青樹社長、滞在時間2時間、VIPルーム、15名。売上450万円。注文品:シャンパン5本、テキーラショット60杯、ウイスキー5本、焼酎3本。【備考】社員用のボトルキープを3本追加。タグは青樹組として保管。部下の赤林様とチトセが連絡先を交換。
――松田様、滞在時間1時間、VIPルーム、1名。売上650万円。注文品 : 貴腐ワイン1本、ウイスキー1本。テキーラショット6杯。
話した内容、客の反応、使ったテクニック、次回へのメモ。すべてを細かく記録していく。これは水城ルナとして生きるための、絶対に欠かせない作業だ。
一通りのお客様の記録が終わると、月乃は昨晩使用していたブランド物のポーチから小さなファイルを取り出した。中にはお客様からもらったチップ入りのポチ袋がいくつか。ポチ袋の表にはひとつひとつ、誰から何時に貰ったのかが丁寧に書かれている。
専用のノートに金額と名前、日時を転記していく。知り合いの税理士に提出するためのものだ。無申告はこの世界で生きる者として許されない。
まとめ終わり、月乃はリビングの隅に置かれた空のガラス水槽の蓋を開けた。そこに、ポチ袋から取り出した現金をそっと入れる。水槽は埃一つなく磨かれているが、何も飼われていない。ただ、静かにそこに佇むだけだ。
月乃は水槽の蓋を閉め、パソコンもシャットダウンした。
休むことなく、情報収集をはじめる。
宅配ボックスから、全ての新聞会社の朝刊を取り出す。ソファに深く腰を沈め、テレビのニュースをBGMにしながらページをめくり始める。
政治、経済、国際情勢、エンタメ、ゴシップ。隅から隅まで目を通す。タブレットで国内のネットニュースもチェックし、続けて英語、中国語、韓国語の海外ニュースサイトへ。持ち前の語学スキルを駆使して1日の出来事を頭に叩き込む。
これが、水城ルナ――有明月乃の朝のルーティン。
豊富な知識。それがこの世界で生き抜くための最大の武器だ。
時刻は13時になろうとしていた。
月乃はワイヤレスイヤホンを耳に挿し、音楽配信サイトを開く。最新曲ランキングの1位から順に再生。心地よいビートに身を任せながら、出前アプリで注文した蕎麦とサラダを受け取る。
食事をしながら、片手でスマホを操作。
起動したのは『フロレンシアの誓約』。
――『フロレンシアの誓約』。
美しい花々と街並みが佇む平和主義国家ヴェルナディア。
海に囲まれたこの国は未曾有の危機に瀕していた。突如、魔族の大群が押し寄せ人々に牙を向いた。聖女であり王国の姫でもある主人公フロレンシアは、ひょんなことから出会った青年アシェルや仲間たちと共に、国を守る宿命を与えられる。――
あらすじが表示されたOPを最後まで眺め、イベント画面を開きランキングをチェック。昨晩と変わらず、1位の欄に『LUNA』の名前が輝いている。2位との差は埋まっていなかった。
それでも月乃は慎重だった。
溜まりかけのスタミナをすべて消費し、イベントポイントを追加で稼ぐ。念には念を入れて、差をさらに広げる。
そして、課金石の補充。カンストまで一気に戻した。
月乃はホーム画面に設定された推しを眺めた。
そこに表示されているのは、主人公のフロレンシア。
ピンクの髪に、青い瞳。ウェーブのかかったロングヘアが愛らしく揺れている。
「今日も世界で一番かわいい……」
月乃は小さく呟き、指で彼女の頬をタップする。
――「えへへ、くすぐったいよ……ねぇ……今日も私のそばにいてくれるよね?」
フロレンシアの甘いホームボイスが流れた。
月乃の頬が、ぽっと赤く染まる。
このゲームをプレイしている理由は、イケメン攻略キャラクターたち目的ではない。
主人公、フロレンシアが好きだ。
スマホの中の彼女を、とにかく幸せにしたくて。重課金して、全イベントで1位を取り続けている。彼女が描かれているスチルであれば例え後ろ姿だけでも手に入れたいからだ。
夜の蝶は、太陽の花に憧れている。
「女性向け作品って美男子たちに注目が集まりがちだけど、女の子のキャラデザも最高に可愛いのよね……!」
月乃はキャラクター相関図を開き、フロレンシアを筆頭に、親友のアン、メイドのルミィ、令嬢であり幼なじみのセレナを眺める。
「イラストレーターのTATAさん、まじ神〜〜〜〜〜!」
ゲームに没頭しているうちに、時刻はあっという間に15時を回っていた。
月乃はシャワーを浴び、スキンケアを丁寧に。軽いメイクをして身支度を整える。
17時頃、玄関のチャイムが鳴った。
「ルナちゃん、こんにちは〜!」
専属美容師の珠莉だった。
「珠莉ちゃん、いつもありがとう」
「今日も完璧に仕上げるからね! さ、座って座って」
珠莉は慣れた手つきでヘアセットとメイクを始める。
プロの無駄のなく丁寧な技術で40分ほどで作業は終了。
「はい、完成! 今日のルナちゃん、めっちゃ綺麗」
鏡に映る自分を見て、“水城 ルナ”は満足げに微笑んだ。
「ありがとう、珠莉ちゃん。助かるわ」
「次は来週ね! じゃあね〜」
珠莉は大きなバッグを提げて、次の現場へと向かっていった。
しばらくして、ルナは自宅前にタクシーを呼び、同伴の待ち合わせ場所へと向かう。
タクシーに乗り込んで5分ほど経ったところで――
突然の轟音。
続けて、衝撃。
気が付けば視界が真っ赤に染まり、黒い煙の匂いが鼻を突く。
遠くでサイレンが鳴り響く。
ルナは衝撃で割れたスマートフォンに表示されたフロレンシアを眺める。
「今日……イベント……最終日なのに……回さ……ない……と……」
ルナの意識は、そこで途絶えた。




