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#3¦暗黙のルールと後輩の相談¦

「……ふぅ」


 数秒の沈黙。


 ようやく顔を上げたルナの瞳には、青樹に見せていた柔らかさはもうなかった。代わりに、鋭く、冷たく、しかし燃えるような光が宿っている。


「あと2時間半……」


 ルナは鏡に映る自分に、静かに微笑んだ。エントランスホールの鏡を見つめるのはルナの癖である。この鏡を見つめているとどこか気が引き締まるのだ。


ーー夜はまだ終わらない。


 ルナはエレベーターホールを離れ廊下を歩き始めた。シャンデリアの光が途切れ、壁に埋め込まれた紫の間接照明だけが淡く足元を照らす。まだ肩に残る青樹の体温がドレスの生地越しにじんわりと熱を帯びていた。


「ルナさん……」


 小さな声が背後からかかった。振り返るとそこに立っていたのは新人キャストのチトセだった。他の黒服や店長から「誠実で真面目」と評判の入店してまだ3ヶ月ほどの新人キャストだ。ルナ自身はまだほとんど話したことがなかったが、他のキャストから悪口を聞いたこともなく気になっていたキャストだ。今回、店長の勧めもあって青樹のテーブルにヘルプとして着いてもらっていた。


 チトセは両手を前でぎゅっと握りしめ、指先が小さく震えている。瞳は潤み、唇は血の気を失っている。


「少し……話があって」


 ルナは一瞬、眉を寄せかけた。


ーー今は一秒でも時間惜しい。

売上グラフはまだ生きている。


 2位のホタルや他のキャストが自分を追い越す可能性はまだ十分にある。しかし震えるその手を無視して通り過ぎるほどルナは冷たくなかった。


 後ろに控えていた橘に視線だけを送る。橘は即座に小さく頷き腕時計を見た。


「5分程度なら大丈夫です」


ルナはチトセの震える手をそっと掴み静かに促した。


「行きましょう。バックヤードまで」


 薄暗い廊下を抜け従業員専用扉をくぐる。誰もいない化粧直し用の鏡が並ぶ小さな部屋に入ると、ルナはチトセを椅子に座らせ自分も向かい合う形で椅子に座った。


チトセは震える手でポーチから小さく折りたたまれた紙を取り出した。


「先程、青樹社長のテーブルで……同席していた部下の方から連絡先を……」


 チトセの声が途切れ、ルナは紙を受け取った。そこには男らしい筆跡で名前と電話番号が書かれていた。


「スマホを出された時に一度断ったんです。でも、紙に書いて無理やり渡されて……」


 チトセの目から、ぽろりと涙がこぼれた。表情には怒られるかもしれないという怯えが出ている。ルナは彼女を安心させるように微笑んだ。

 

「これはね、お客様があなたに『受け取ってほしい』と思って渡した連絡先よ」


 チトセが息を呑む。


「本指名がいるお客様のテーブルでヘルプが連絡先をもらうのは確かにご法度。でも……」


 ルナはゆっくりと首を振った。


「私が青樹様の接客に集中できるのは、あなたがいてくれたから。あなたが一生懸命、部下の皆様の接客をしてくれたから私は社長の隣で笑っていられるの。ヘルプがいなければ、私が全部回さなきゃいけないわ」


「でも……!!」


 チトセはそれでも自身を責めようとする。ルナはチトセの震える手を、両手で包み込んだ。過去に他店舗で女性キャストと揉めたことがあるのかもしれない。


「私がその程度のことでNo.1から落ちるとでも思う?」


 チトセは慌てて首を横に振った。

 激しく、必死に。


 お客様を“その程度”と表現するのはルナの心情的に許せるものではないが今はチトセの説得が最優先である。

 ルナはくすりと笑い、チトセの背中を軽く叩いた。


「連絡の返事は時間勝負よ。早く返せば返すほど、お客様は『この子は本気で俺のことを考えてくれている』と思う。 逆に遅くなれば、ただの営業だと思われる。わかった?」


「は、はい……!」


「じゃあ、早く!早く!」


 ルナはチトセを立ち上がらせ、背中を押して部屋から追い出した。ドアが閉まる直前、チトセが頭を下げた。

 ルナは深く息を吐き、自分も部屋を後にする。ドアを開けると、ちょうど橘が立っていた。


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