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18/30

#18¦経験は三文の徳¦


 馬の背に揺られて数時間。

 枯れた森を抜け、ゆるやかな丘を越えるたび、周囲の色がゆっくりと変わっていく。

 空がオレンジに染まり、地面に長い影が伸び始めた。

 

 ――もうすぐ日没だ。

 

 ソラリスは小さく息を吐き、馬の首を軽く撫でた。


 「ここで休みましょう。夜道は危ないわ」

 

 手頃な窪地を見つけた。木々が少しだけ残り、風を遮ってくれた。馬を木に繋ぎ、ソラリスは小屋から持ってきた火打石と枯れ枝を地面に並べる。


 ゲーム知識ではなく、前世で体験したキャンプで覚えたやり方を思い出しながら、火花を散らす。


 カチ、カチ、カチ……。


 何度も打ち、ようやく小さな炎が灯った。ソラリスは火を育てながら、ふと自分の手を眺めた。

 

 ――三日以上、お風呂に入っていない。

 

 指先が少しざらついている気がする。汗と埃が混じった肌。現代日本の風呂文化に染まりきっ体は、こんな原始的な生活に拒否反応を示していた。トイレは森の奥で済ませ、衛生管理は最低限の布で拭くだけ。歯磨きも出来ず口に含んだ水でうがいをするのが精一杯。

 

 (スウィートピア港には……せめて共同浴場くらいあるはずよね?)

 

 No.1キャバ嬢として毎日欠かさなかった美容ルーティンがここでは何一つ出来ていない不快感があった。エステ、サプリ、ピラティス……あのすべてが、今は遠い夢のようだ。

 

 あたりが急速に暗くなり夜を迎えた。

 

 その瞬間――。

 

 シラタマの体が、突然白い光に包まれた。

 

「え……?」

 

 ソラリスが目を見開く。昼間、宵月の変華水を塗ったときと同じ、淡く優しい輝き。光が収まったとき、そこにいたのはもこもこの雲の姿ではなく、雪のように白い巨大なドラゴンの姿だった。

 

 鱗が星明かりを反射し、翼を軽く畳んだ気高い姿。

 

「シラタマ……?」

 

 ソラリスは慌てて立ち上がり、ドラゴンの前足に近づいた。

 

「どうしたの?体は平気?」

 

 シラタマは首を傾げ、きょとんとした大きな瞳でソラリスを見つめた。

 

「……?僕、いつも通りだよ?」

 

 声は相変わらず無邪気。だが、姿は完全にドラゴンに戻っている。

 

 ソラリスは息を呑んだ。

 

 ――ゲーム内の宵月の変華水には途中解除の効果なんてなかった。


 アイテムを使った瞬間から、次の使用まで固定。イベントで何度も確認したはずだ。

 

「ゲーム内での効力と、実際の世界は同じじゃない……ってこと?」

 

 小さな声で呟く。残りの変華水はあと4本。安易に使えない。使うタイミングはもっと慎重に選ばなければならない。

 

 異世界の常識、魔力の仕組み、20年の空白……。

 そのすべてがソラリスの胸に重くのしかかる。火の前で膝を抱え、ピンクの髪を指で梳いた。

 

 (不安だわ……でも、弱音は吐けない)

 

 ソラリスは深く息を吐き、巨大なドラゴンの背中に寄りかかった。冷たい鱗の感触が、背中全体を包む。シラタマはそっと翼を広げ風を遮ってくれた。

 ドラゴン姿のシラタマには小さな傷がいくつもあった。


「ソラリス、眠れる?」

 

「……うん。ありがとう」

 

 そう言いながらも、眠れなかった。

 慣れない地面の硬さ、火の匂い、遠くで聞こえる獣の声。すべてが神経を逆なでする。ソラリスはアイテムボックスの中になにかないかと思いそっと詠唱を唱えた。

 

「ヴェルナディアの血脈に刻まれし花の記憶よ……」

 

 ロベリアの花環匣を開けようとした。昼間はあれほど簡単に瓶を取り出せたのに。

 

 何も起きなかった。

 

 ブレスレットはただ静かに輝くだけで、頭の中に情報は流れ込まない。魔力の流れがまるで途切れているかのように。

 

「…………」

 

 唇を噛む。眠れない夜に、ますます不安が膨らむ。

 そのとき、シラタマが低く優しい声で囁いた。

 

「ソラリス、寒い?」

 

 小さな風が巻き起こる。温かく、柔らかな空気が、まるで上質なブランケットのようにソラリスの体を包み込んだ。火の熱と、毛布の温かさと、魔法の風。三重の温もりが、ようやくソラリスのまぶたを重くした。

 

「……ありがとう、シラタマ」

 

 小さく呟き、ソラリスは意識を手放した。


 

 

 ――不思議とこれは夢だとすぐ分かった。

 

 ――そこは白い花畑。

 

 一面に咲き乱れる白い花々が、風にそよぎ、甘い香りを運んでくる。空は透き通るような青。太陽の光が優しく降り注ぎ、すべてが柔らかく輝いている。

 

 そこに一人の女性が立っていた。

 

 ピンク色の長い髪が、風に優しく揺れている。純白のワンピースが彼女の清楚さを表しているようだった。空のように澄んだ青い瞳が、穏やかにソラリスを見つめていた。

 

 その姿は、紛れもなく――。

 

 前世で何百時間も愛した。

 重課金して、ランキングを独占して、毎日ホーム画面に設定していた。

 

 『フロレンシアの誓約』の主人公、あのフロレンシアそのものだった。

 

 彼女は静かに微笑み、唇を開いた。

 

「――会いたかった、ソラリス」

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