第2話:地獄の雑用と、拒絶
「――おい、起きなドブネズミ。朝だよ」
ドカッ!!
「ぐはっ!?」
まだ東の空すら白んでいない早朝。横腹に叩き込まれた容赦のないブーツの衝撃で、エドワードは床を転がった。
全身が痛む。昨夜、冷水をひっかぶって以来、湿った雑巾のような床で寝かされていたのだ。
「ひ……冷たッ……痛い……! な、何をするんだ急に!」
「何をする、じゃないよ。私の工房に居座るなら、働いてもらわなきゃ困るんだよ。ほら、今日の雑用だ」
セラフィナはキセルをくゆらせながら、一枚のメモ紙と、ジャラリと音を立てる革袋をエドワードの顔面に投げつけた。
「街の薬問屋に行って、そのメモにある『魔導触媒用の精製薬草』と『朝食のパン』を買ってきな。お釣りと品物を揃えて15分以内に戻ってこなかったら、朝飯抜きで薪割り千本だからね」
「15分!? この広い王都で薬問屋まで走って往復しろと言うのか!?」
「14分になったよ」
「なっ……! くそっ!」
エドワードは惨めに床を這いずり、金貨の入った革袋をひっ掴むと、裸足同然の格好で早朝の冷たい街へと飛び出した。
◇
「……はぁっ……はぁっ……! 頼む、このメモの薬草と、焼き立てのパンをくれ! 金ならある!」
息を切らせて薬問屋の店頭に転がり込み、金貨を並べたエドワード。
だが、店の主人は並べられた金貨を一瞥すると、胡乱な目でエドワードを見下ろした。
「おいおい、汚ねぇ格好の浮浪者だな。……で、身分証は?」
「は……? 身分証……?」
「当たり前だろ。魔導用の薬草は王国の管理品だ。身分証の提示がなけりゃ、金があろうと売れるわけねぇだろ。ほら、出せ」
「そ、そんなものは……っ! 私はエドワードだ! 王国の第二王子だぞ!? 顔を見れば分かるだろう!」
エドワードが必死に叫ぶと、主人は盛大に吐き捨てた。
「ハッ! 王子様だと? 戯言吐いてんじゃねぇよ! 戸籍も身分証もねぇ不法滞在者が、王族の名を騙るなんざ重罪だぞ! 王都の衛士を呼ばれたくなけりゃ失せろ!」
「うわっ!?」
突き飛ばされ、冷たい石畳の上に激しく尻餅をつく。
隣のパン屋にすがろうとしても、結果は同じだった。「身分証のない身元不明者に売るパンはない」と、塩を撒かれて追い払われた。
(なぜだ……! 金はあるのに……! 王子だったこの私が、パン一つ、薬草一つ買えないというのか……!?)
存在を消された人間の社会的抹消という現実が、冷たくエドワードの胸を刺した。
◇
手ぶらで工房へ戻り、ふてくされたように下を向くエドワード。
「……買い込めませんでした。身分証がないと売れないと追い出されました。あんな奴ら、後で首を撥ねてやる……っ」
不満をぶちまけるエドワードを見下ろし、セラフィナは呆れたように大きな溜息をついた。
「はぁ……本当におめでたい頭だねぇ。言っただろ、あんたの存在は教会からも戸籍からも消えてるんだ。社会的には『この世に存在しないゴミ』なのさ。……で? 買えなかったから『できませんでした』でふてくされて戻ってきたのかい?」
「だ、だって仕方ないだろう! 身分証がないのだから!」
「言い訳を聞いてるんじゃないんだよッ!!」
ドガンッ!!
「ぐあぁっ!?」
セラフィナが脚を払うと同時に、衝撃波がエドワードの身体を吹き飛ばし、工房の壁に叩きつけた。
「買えないなら、盗んででも、拝み倒してでも手に入れてくるのが生き残るってことさ! 自分の無能さを身分証のせいにして突っ立ってるんじゃないよ、このドブネズミが!」
絶叫する暇もなく、セラフィナはエドワードの襟首を掴み上げた。
「……チッ、仕方ないねぇ。おい、行くよ」
「ど、どこへ……っ!?」
「決まってるだろ。あんたの身分証を作りに行くんだよ」
◇
向かった先は、王都の冒険者ギルド本部。
その最上階にある、ギルドマスターの執務室であった。
「――おい、アルフレッド。開けな」
バンッ! とノックもなしにドアを蹴破って入ってきたセラフィナに、執務室で書類を検分していた厳めしい巨漢のギルドマスター・アルフレッドは、頭を抱えて呻いた。
「ゲッ……セラフィナ様……! 入る時はノックをしてくださいと何度も……それに、その汚らしい男はなんです?」
「こいつの冒険者登録をしに来たんだよ。今すぐ身分証を発行しな」
セラフィナはボロ布のようなエドワードを、ギルドマスターの豪華なデスクの前に押し出した。
だが、ギルドマスターはエドワードの姿を一瞥すると、即座に首を振った。
「なっ……冗談でしょう!? 身元不明の浮浪者など登録できるわけがありません! ギルドの規約上、身分証か出身地の証明書が必須で――」
「おいおい、アルフレッド。私の紹介でもダメだってのかい?」
「ダメなものはダメです! 冒険者ギルドは王国の法に基づいて運営されているのです。いくら『世界3指』のセラフィナ様の頼みであっても、身分証の提示も証明もできない者を登録させるわけにはいきません!」
ギルドマスターは毅然とした態度で、きっぱりと突っぱねた。
セラフィナはしばらくキセルの煙をくゆらせていたが、やがて「フン」と鼻を鳴らした。
「……そうかい。ならいいよ。出直すさ」
「えっ……!?」
あっさりと背を向けるセラフィナに、エドワードは耳を疑った。
てっきり強引に力で押し通してくれると思っていたのだ。
ギルドを出て、冷たい雨の降る王都の通りへ放り出されたエドワードは、セラフィナの背中にすがりついた。
「な、なぜ引き下がるんだ!? 頼む、師匠! あなたの力でギルドマスターを脅してでも、身分証を作らせてくれ! このままじゃ私は、パン一つ買えないんだぞ! 死んでしまう!」
立ち止まったセラフィナは、振り返って冷酷な、しかし真実を突く眼差しでエドワードを見下ろした。
「脅して作らせただと? バカをお言い。社会ってのはねぇ、ルールで動いてるんだよ。いくら私に力があろうと、社会のルールそのものを折り曲げることはできないのさ。そして今のあんたは……そのルールから完全に弾き出された『ただの無』なんだよ」
「あ……」
「身分証がないってことが、どれほど恐ろしいか身に沁みたかい? あんたはこの街でパンを買うことも、家を借りることも、衛士に保護を求めることすら許されないんだ。街を歩けばいつ不審者として捕まって処刑されても文句は言えないのさ」
雨に打たれながらガタガタと震えるエドワードの肩を、セラフィナの温かい手がポンと叩いた。
「あんたを人間として扱って、雨風を凌ぐ屋根と飯をやっているのは……この世界で私一人だけなんだよ、ドブネズミ」
「師匠……っ」
絶望のどん底で突きつけられた、圧倒的な理不尽と現実。
そして、その理不尽な世界の中で自分を拾い、生かしてくれているセラフィナという存在の、あまりにも巨大なありがたみ。
エドワードの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「わ……私は……これからどうすれば……っ」
「決まってるだろ。身分証が手に入らないなら、実力で証明するしかないのさ。ギルドが認めざるを得ないほどの『成果』を、私の雑用(修行)で上げてみせな」
セラフィナはニヤリと不敵に笑うと、エドワードの首ぐさを掴んだ。
「さぁて、腹を括りな! 工房へ戻ったら、身分証の代わりになるだけの力をつける『地獄の魔導筋トレ』と、山狩り雑用が待ってるからねぇ!」
「ひっ……! は、はいッ……師匠!!」
かつてのプライドを完全に砕かれ、初めて「師匠」と叫んだエドワード。
社会から拒絶された男の、本当の地獄と泥臭い成長がここから始まるのだった――。




