第1話:どぶ川の底で蠢く塊
冷たく汚れた雨が、ヴァルモント王国の王都――その華やかな表通りから外れた暗い路地裏を叩きつけていた。
冒険者ギルドでの仕事を終え、湿ったロング煙管に紫煙をくゆらせながら歩いていたセラフィナは、どぶ川の脇に転がっている「塊」に目を留めた。
「ふん……また酒に呑まれた出来損ないの冒険者が、ドブの中で野垂れ死に懸けているのかい」
履き古した革ブーツの音を響かせ、歯でキセルを噛みながら一蹴して通り過ぎようとした――その瞬間である。
セラフィナの足が、ピタリと止まった。
男のボロ布のような服の隙間から、途切れ途切れに漏れ出す微かな魔力の波長――。
(……ほう?)
セラフィナは琥珀色の瞳を不敵に細めた。
その魔力の質、そして甘くくどい独特の波長。
(この排気量と質感……あの『若作りババァ』の血統そのものじゃないか)
セラフィナはブーツの先端で、泥と水に塗れて丸まる男の顔をひょいと向けさせた。
髪はへばりつき、かつての面影すら泥に隠れた青年。だが、誇りを全て失い、空虚な目で天を仰ぐその顔立ちには見覚えがあった。
(なるほど。王宮で噂になっていた『身勝手な不貞と暴走の果てに、公的記録ごと存在を消されたバカ王子』かい)
王家に連なる極上の魔導エンジンの素質を持ちながら、体を鍛えることもなく、精神を研ぎ澄ますこともせず、怠惰と驕りで自らゴミ箱へ飛び込んだ最低の愚者。
セラフィナの脳裏に、彼女がこれまでの長い生涯で育て上げた「過去の三人」の姿が過る。
いずれも理不尽な世界に打ちのめされ、泥をすすりながらも、その奥で目をぎらつかせて這い上がってきた者たちだ。
(……それに比べて、拾い物にしては最高に悪趣味で情けないドブネズミだねぇ)
セラフィナは呆れ果てて煙を吐き捨てたが、男の襟首を片手で軽々と掴み上げ、雨の路地裏をあとにした。
◇
「――ひっ!? 熱っ! 痛いっ! やめろッ、何をする!!」
頭から冷水をぶっかけられ、薪の爆ぜる音とともに跳ね起きたエドワードは、悲鳴を上げて周囲を見回した。
見たこともない怪しげな薬草、乱雑に積まれた巨大な魔導書、そして怪しい魔法陣が描かれた床。
その中央で、ロングキセルから紫煙をくゆらせ、スリットの入った黒い魔導衣から覗く脚で悠然と腰掛けている一人の女がいた。
「騒ぐんじゃないよ、ドブネズミ」
「ど、ドブ……!? 貴様、無礼だぞ! 私はヴァルモント王国が第二王子、エドワード・ヴァルモントだ! 助けてやったのだから平伏して――」
「パチン」
セラフィナが親指を鳴らした瞬間、目に見えぬ透明な魔力の帯がエドワードの首を激しく締め上げた。
「がっ……ぁ、あ……っ!?」
「大声を出すんじゃないよ」
セラフィナの琥珀色の瞳から、寒気が走るほどの圧倒的な圧力が放たれる。
「第二王子だと? おめでたい頭だねぇ。ギルドの裏ルートで調べさせたが、お前という存在の記録は王家の系図からも、教会の出生届からも跡形もなく消えている。お前はもう王子でも何でもない。ただの身分証すら持たない『名無しの不法滞在者』さ」
「ひ……っ!?」
喉を絞め直され、地面に突っ伏したエドワードの顔から血の気が引いていく。
『存在の消去』――かつて兄ジュリアンから告げられた絶望の判決が、冷徹な現実となって脳裏を叩いた。
「素質(エンジンの排気量)だけなら、あの『若作りババァ(大后)』の血統そのものだってのにさ。まともに鍛えることもせず、己の浅はかさと欲で自滅した……最高に惨めなおバカさんだねぇ、あんたは」
「な……私を……バカだと……!?」
「バカどころか狂気の沙汰さ!」
セラフィナはキセルの煙管で、エドワードの額をガンガンと突き飛ばした。
「己の無能さを棚に上げて、国を支えていた元婚約者を『攻撃魔法が使えない欠陥品』だと追い出したそうじゃないか。……笑わせるねぇ! あの娘がどれほどの莫大な魔力と、国家を見通す怪物じみた知性を持っていたかも知らずにさ!」
「え……? し、シェリィが……怪物……?」
「当たり前だろ! あれほどの至宝を自ら泥の中に投げ捨てるなんて、救いようのないアホだよ」
絶句するエドワードに対し、セラフィナは不敵に目を細め、身を乗り出した。
「あんたのその錆びついた魔力……私が一から叩き直してやる。ただし、私の修行は生半可じゃないよ。血反吐を吐いて自分の愚かさを噛み締めな」
セラフィナはキセルを収め、冷酷な笑みを浮かべて扉を足で指し示した。
「嫌ならその細い脚で外へ出て、冷たいドブ川で野垂れ死にな。……どうするんだい、ドブネズミ?」
逃げ場など、最初からどこにもなかった。
追放され、存在を消され、凍死する直前だった自分に残された、唯一にして地獄のような蜘蛛の糸。
「……た、助けて……くれ……。死にたく……ない……っ!」
エドワードは涙と泥に濡れた顔で、セラフィナの履き古した革ブーツの先へ必死にしがみついた。
「いいお返事だねぇ」
セラフィナは愉悦に満ちた笑みを深めた。
「覚悟しな。今日からお前は私の『雑用兼・実験体第1号』だ!」
こうして、世界最高峰の気まぐれな魔女と、身分を奪われた元王子の、泥臭く過酷な「地獄の鍛え直し」が幕を開けたのだった――。




