第2話
「そういえば」
現在へ意識を戻す。
カフェリーヌが顔を上げた。
「何ですの?」
「お前、コーヒーは嫌いになったって言ってなかったか?」
妹の動きが止まった。
ほんの一瞬だった。
「言いました?」
「言った」
「いつ?」
「十三歳くらい」
カフェリーヌは少し考える。
「そうでしたかしら」
「覚えてるよ。急に飲まなくなったからな」
あれだけ好きだったのに。
ある日を境に、朝食の飲み物が紅茶へ変わった。
理由を聞いた私に、カフェリーヌは笑って答えた。
――わたくし、コーヒーはあまり好きではありませんの。
味覚が変わったのだと思った。
十三歳なら、そういうこともあるのだろうと。
「また好きになったのか?」
尋ねると、カフェリーヌはカップへ視線を落とした。
「いいえ」
「じゃあ何だ?」
「ずっと好きでしたわ」
「……ずっと?」
「ええ」
「十三のときも?」
「好きでした」
「十四」
「好きでした」
「十五」
「好きです」
「十六」
「ですから、ずっと好きだと言っていますでしょう?」
少し怒られた。
だが、意味が分からない。
「だったら、なんで飲まなかったんだ?」
カフェリーヌは答えなかった。
代わりにカップを持ち上げる。
一口飲む。
それから、ふっと笑った。
「やっぱり、おいしいですわね」
その笑顔を見た瞬間。
何かがおかしい。
そう思った。
「フェリ」
「何です?」
「殿下はコーヒーが嫌いなのか?」
妹の指が止まった。
ほんのわずかに。
だが、私は見逃さなかった。
「どうして殿下のお話になるんですの?」
「十三歳って、お前が殿下と婚約してからだろ」
正確には婚約が決まったのは十二歳。
王妃教育が本格的に始まったのが十三歳だった。
「それとコーヒーに何の関係が?」
「あるのか?」
「……」
「あるんだな?」
カフェリーヌはため息をついた。
「お兄様」
「なんだ」
「半年ぶりなのでしょう?」
「ああ」
「領地のお話を聞かせてくださいな」
話を変えた。
明らかに。
だが、それ以上聞くなという意思も感じた。
私は自分のコーヒーを飲んだ。
苦い。
いつもと同じ味のはずなのに、その日は妙に苦く感じた。
◇
違和感はコーヒーだけではなかった。
翌日の午後。
廊下を歩いていると、庭から犬の鳴き声が聞こえた。
窓から覗く。
カフェリーヌがいた。
「……何してるんだ?」
我が家の老犬バルトと遊んでいる。
カフェリーヌが木の棒を投げ、バルトがのそのそ追いかける。
昔はよく見た光景だ。
だが、ここ数年は見た記憶がない。
私は窓を開けた。
「フェリ!」
妹が見上げる。
「お兄様?」
「何してる?」
「バルトと遊んでいます」
「それは見れば分かる」
「でしたら、なぜ聞いたんですの?」
「ドレスが汚れるぞ」
「着替えます」
「髪も乱れてる」
「あとで直します」
「日に焼ける」
言ったところで、カフェリーヌが眉を寄せた。
「お兄様」
「なんだ?」
「昔はお兄様がわたくしを庭へ連れ出していたでしょう?」
「それは昔の話だ」
「十年前は最近なのでは?」
返された。
「……それとこれとは違う」
「便利ですこと」
カフェリーヌが笑う。
バルトが戻ってきた。
妹はしゃがみ込み、その大きな頭を撫でる。
楽しそうだった。
「王妃教育は?」
尋ねる。
「今日はないのか?」
「ありませんわ」
「休み?」
「ええ」
「昨日も行ってなかっただろ」
「そうですわね」
「明日は?」
「ありません」
「三日も?」
「しばらくお休みです」
おかしい。
王妃殿下はカフェリーヌの教育に熱心だった。
王太子妃となる以上、覚えることは山ほどある。
三日どころか、数週間先まで予定が決まっていたはずだ。
「何かあったのか?」
「何も」
「本当に?」
「ええ」
カフェリーヌはまた棒を投げた。
バルトが追いかける。
私は窓辺に立ったまま妹を見ていた。
日に焼けるからと庭へ出なくなった。
そう思っていた。
だが。
誰が、そう言った?
母ではない。
父でもない。
私でもない。
「フェリ」
「はい?」
「殿下は白い肌の女性が好きなのか?」
カフェリーヌがこちらを見る。
また同じ顔だ。
答えたくないときの顔。
「お兄様」
「なんだ」
「本当に質問が多いですわ」
「半年ぶりに帰ったら、妹が別人みたいになってるからな」
「別人?」
「コーヒーを飲む。庭で遊ぶ。王妃教育にも行かない」
「それだけで?」
「昨日の昼、辛い煮込みも食べてた」
「おいしかったですわ」
「お前、辛いもの嫌いだっただろ」
「好きです」
「……は?」
「辛いもの、大好きですわ」
初耳だった。
いや。
昔は好きだった気がする。
幼い頃、父の皿から辛い肉料理を盗んで、母に叱られていた。
いつから嫌いになった?
「赤いドレスは?」
思わず聞いた。
「何です、急に」
「好きだったよな」
「好きですけれど」
「最近、青しか着てなかっただろ」
「そうでしたかしら」
「乗馬は?」
「好きです」
「観劇と野外音楽会なら?」
「野外音楽会」
「推理小説」
「大好きです」
私は黙った。
妹も黙った。
「……全部」
「はい?」
「全部、好きだったのか?」
「何の話ですの?」
「コーヒーも。辛いものも。乗馬も。赤い服も。推理小説も」
「ええ」
「ずっと?」
カフェリーヌは少し考えてから頷いた。
「嫌いになった覚えはありません」
背中に冷たいものが走った。
「じゃあ、なんでやめた?」
答えはない。
「殿下か?」
「お兄様」
「殿下が嫌いだから?」
「違います」
「何が違う」
「殿下は何も悪くありません」
「悪くない?」
思わず声が大きくなった。
「お前が好きだったものを全部やめさせておいて?」
「やめろとは言われていません!」
強い声だった。
私も黙る。
カフェリーヌは立ち上がった。
ドレスについた草を払う。
「殿下は、一度もわたくしにコーヒーを飲むなとはおっしゃっていません」
「じゃあ、なぜやめた」
「殿下が香りを苦手だとおっしゃったからです」
「同じだろ」
「違います」
「何が違う」
「殿下はご自分が苦手だとおっしゃっただけです」
カフェリーヌは私をまっすぐ見た。
「やめたのは、わたくしです」
「辛いものも?」
「殿下は苦手です」
「赤いドレス」
「落ち着いた色のほうが似合うと褒めてくださいました」
「乗馬」
「殿下は馬がお好きではありません」
「推理小説」
「殿下は歴史書がお好きです」
「……全部じゃないか」
カフェリーヌが困ったように笑う。
「そうですわね」
「笑い事じゃない」
「でも、殿下は悪くありません」
「四年も好きなものを我慢してたんだぞ」
「我慢ではありません」
「だったら何なんだ」
少し間があった。
「好きな方に、好きになっていただきたかったんです」
何も言えなくなった。
カフェリーヌは十二歳だった。
相手は王太子。
国中の少女が憧れるような相手から婚約者として選ばれた。
幼い妹が舞い上がっていたのを覚えている。
殿下が好きな本を読み。
殿下が好きな曲を覚え。
殿下が好きな色を身につける。
その一つ一つは、きっと苦痛ではなかったのだろう。
少なくとも最初は。
「今も好きなのか?」
聞いてしまった。
カフェリーヌはすぐには答えなかった。
「……分かりません」
「分からない?」
「好きだったのは本当です」
妹はバルトの頭を撫でる。
「でも、今も同じように好きなのかと聞かれたら、もう分かりませんわ」
「何かあったのか?」
沈黙。
「フェリ」
「お父様に聞いてくださいませ」
「なぜ父上が出てくる」
「そのほうがいいと思います」
「俺はお前に聞いてるんだ」
「ごめんなさい」
それだけ言って、カフェリーヌは屋敷へ戻っていった。
私は庭に取り残された。
バルトだけが私のところへ来る。
「……お前は知ってるか?」
当然、答えはない。
仕方なく、そのまま父の書斎へ向かった。
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