第1話
妹がコーヒーを飲んでいた。
半年ぶりに王都の屋敷へ戻った私は、朝食室へ入ったところで足を止めた。
窓際の席に座っているのは、五歳年下の妹、カフェリーヌ・ベルージュ。
十七歳。
ベルージュ公爵家の令嬢であり、エドワード王太子殿下の婚約者でもある。
そのカフェリーヌが、白いカップを口元へ運んでいた。
漂ってくる香ばしい匂い。
紅茶ではない。
間違いなくコーヒーだった。
「……フェリ?」
妹が顔を上げる。
「おはようございます、お兄様」
「ああ。おはよう」
「どうかなさいました?」
「いや……」
私は妹の向かいへ座った。
使用人がすぐに私の前にもコーヒーを置いてくれる。
礼を言ってから、もう一度カフェリーヌを見る。
やはり飲んでいる。
見間違いではない。
「お兄様」
「なんだ?」
「先ほどから、わたくしの顔に何かついています?」
「ついてない」
「では、なぜ見ていらっしゃるの?」
「それ」
私はカフェリーヌのカップを指した。
「コーヒーだよな?」
カフェリーヌは自分のカップを見る。
それから私を見た。
「そうですけれど」
何を当たり前のことを聞いているのだ、という顔だった。
私はテーブル中央に置かれた砂糖壺を見る。
「砂糖は?」
「一杯」
「ミルクは?」
「入れましたわ」
「そうか」
「……何ですの?」
「いや」
そこは昔と変わらないらしい。
私がブラックで、カフェリーヌは砂糖とミルク入り。
「まだ砂糖を入れるんだな」
「悪いですか?」
「悪くない」
「では、放っておいてくださいませ」
「昔は二杯だった」
「いつの話ですの?」
「七歳くらい」
カフェリーヌが呆れた顔をする。
「十年前ではありませんか」
「つい最近だ」
「十年を最近と言うのは、お兄様くらいですわ」
「俺にとっては最近なんだよ」
「わたくしをいつまで七歳だと思っていらっしゃるの?」
「思ってない。ちゃんと十七歳だと認識してる」
「でしたら十七歳として扱ってくださいませ」
「努力する」
「なぜ少し考えたんですの?」
「気のせいだ」
カフェリーヌは納得していないようだったが、追及はしなかった。
カップを持ち上げ、もう一口飲む。
その姿を見ていると、十年前のことを思い出した。
◇
私が十二歳、カフェリーヌが七歳だった頃。
当時の私は、何でも父の真似をしたがった。
父が新聞を読むなら私も読む。
父が懐中時計を持つなら私も欲しい。
父が食後にコーヒーを飲むなら、私も飲みたい。
十二歳になった日、ようやく母から許可が出た。
初めて飲んだコーヒーは、想像していたよりずっと苦かった。
だが、父の隣で飲んでいる以上、顔をしかめるわけにはいかない。
私は必死に平然とした顔を作った。
それを向かいの席からカフェリーヌが見ていた。
「お兄様」
「なんだ?」
「それは何ですの?」
「コーヒー」
「おいしい?」
「大人の味だ」
おいしいとは言わなかった。
十二歳の私なりの精いっぱいの抵抗だった。
ところが七歳の妹に、そんな言葉の裏など分かるはずもない。
「わたくしも飲みたいです!」
母が即座に止めた。
「カフェリーヌにはまだ早いわ」
「どうしてですの?」
「コーヒーはもう少し大きくなってからよ」
「お兄様は飲んでいます!」
「アルフレッドは十二歳になったから」
カフェリーヌは私と母を交互に見る。
「五つしか違いません!」
五つは大きいだろう。
そう言ったら泣きそうな顔をされたので黙った。
結局、カフェリーヌには代わりのものが用意された。
煎った大麦から作った、コーヒーによく似た飲み物。
そこへ温めたミルクをたっぷり。
砂糖も二杯。
カフェリーヌは大喜びした。
「お兄様と同じです!」
私は妹のカップを覗き込んだ。
「全然違う」
「同じです!」
「俺のは本物のコーヒーだぞ」
「わたくしのもコーヒーです!」
「大麦だ」
「お母様はコーヒーみたいなものだとおっしゃいました!」
「みたいなもの、な」
「同じです!」
「違う」
「同じ!」
その日から、私が朝にコーヒーを飲むと、カフェリーヌも大麦コーヒーを飲むようになった。
砂糖二杯。
ミルクたっぷり。
本人は私と同じものを飲んでいるつもりだった。
九歳になっても。
十歳になっても。
十一歳になっても。
そして十二歳の誕生日。
朝食室へ来たカフェリーヌの前に、私は一杯のコーヒーを置いた。
妹は目を丸くした。
「これは……」
「本物だ」
「本物?」
「十二歳になっただろ」
私は覚えていた。
カフェリーヌ自身は忘れていたようだった。
「飲みたかったんじゃないのか?」
「飲みたいです!」
嬉しそうにカップを持つ。
そして何も入れずに一口飲んだ。
次の瞬間。
カフェリーヌの顔が固まった。
「……苦いですわ」
「だろうな」
「お兄様は、これを毎朝?」
「ああ」
「おいしいんですの?」
「慣れればな」
カフェリーヌはカップの中を睨んだ。
そのまま諦めるかと思ったが、砂糖壺へ手を伸ばした。
一杯。
少し迷って、もう一杯。
さらにミルクをたっぷり。
混ぜてから、もう一口。
今度は顔が明るくなった。
「おいしいです!」
「それなら大麦のやつでよかったんじゃないか?」
「違います!」
「何が?」
「こっちのほうが香りがいいです」
意外だった。
苦いと言っていたくせに、香りは気に入ったらしい。
それからカフェリーヌは本物のコーヒーを飲むようになった。
最初は砂糖二杯。
そのうち一杯。
ミルクは相変わらず入れる。
十三歳になる頃には、すっかりコーヒー好きになっていた。
だから私は知っていた。
カフェリーヌはコーヒーが好きだ。
そう思っていた。
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