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【悪夢】

 

 ―――寒い……冷たい……。


 視界は墨の様な漆黒で満たされている。

 瞼が開いているのか、閉じているのかも分からない。

 声が出ない……否、声を出しているのに、耳に届かない。

 肌に感じる温度は冷たく、肌に触れる感触は固い。

 この感覚には身に覚えがある。


 ―――此処は……まるで、あの“檻”の中の様……。


 体が動かない……だけど何かに制されている訳ではない。

 体が“動け”と言う命令を聞かないのだ。

 何より全身から血の気を感じない。

 真っ暗な視界の中で、身動き一つ取れず、声を上げる事も出来ずにいると―――ふと、視界に“深紅の雫”が映り込んだ。

 その雫は仰向けに横たわる私の頬に点々と滴り落ち、そして一つの雫が……開いた唇の上に落ちた。

 生温かく、どろッとした“深紅の雫”は、引力に逆らう事無く―――私の口の中へ流れ込む。


「―――ッ」


 瞬間―――体が大きく震えた。

 血の気を感じなかった全身に、生命力を感じさせる温かさが宿る。

 漆黒に塗れた視界も、徐々に明るさを認識し始める。

 さっきと打って変わって、冬の積雪の様な真っ白の世界が視界を覆う。

 体も動かせるようになり、横たわっていた地面から起き上がる。

 今度こそ、思い通りに動かせる四肢に安堵して、胸を撫で下ろす。


 けれど―――真っ白な背景をぐるっと見渡すが、何もない、誰も居ない。

 夢だと分かっていても、徐々に不安が込み上げて来る。


「主様……なつ兄様……アオイ……?」


 ―――誰か……誰も居ないの?


 体が孤独の恐怖に震え始めた。


 ―――もし……また、このまま独りきりだったら?


 里での三年近い檻の中で過ごした孤独の時間が脳裏を過る。


健子タケコ


 ぞっとする甘い声が、私の名を呼んだ。

 だけど、身の毛も弥立つその声を……私は知っている。

 ずっと前から……物心つく頃には、もう既にその声だけで誰なのか認識できる程、よく知った人物―――


『健子……健子、おいで』


 優しくて、いつも可愛がってくれていた―――私の実兄、尊人タカト

 だけど、その優しさがとても脆く、酷く歪んだ愛情と分かった時から、私の中の優しい兄様は霧のように消え去った。


「健子……私の健子……こっちへおいで……私の許へ……さぁ…さぁ…さぁ!」

「ひっ」


 真っ白な空間から、ぬるりと動く人影が出現した。

 それは、水面に映った不確かな人像でありながら、近寄りがたい存在感を確かに感じ取った。


「いや……いやっ! イヤァアッ!」

 

 私は恐怖で逃げ出した。

 背中から私の名を呼び続ける……兄の甘ったるい声。


 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い…!


 ―――いや……嫌だ……もう嫌だ……!


「こんな夢……早く覚めてよぉ…っ!!!」


 喉がはち切れて、血が出そうな程叫んだ。

 右も左も分からない真っ白な空間を走り出す。

 我武者羅に走っていると、突然、前方を塞いだ何かに体を打ち付けた反動で、背中から倒れてしまった。


「え……?」

 

 恐る恐る目を開けると、そこに居たのは―――純白の毛で覆われた、深紅の瞳の大きな獣(・・・・)だった―――



 体が大きく跳ね上がった感覚がした。

 その勢いなのか、無意識で閉じていた瞼を開けた。

 真っ先に視界に映ったのは、木目調の茶色の天井だ。

 恐る恐る視線を右に傾けると、さっき街で買い集めた家具が目に留まった。

 薄く開いた窓からは鳥のさえずりが聞こえる。

 陽の光もさしている事から、雨が止んだのだと分かった。

 今度は視線を下に向けて、自分自身の姿を確認する。

 身に着けている衣服は、買い出しに行った時と同じものだ。

 誰が敷いてくれたのか、布団の上に横たわっている事から、私は今まで眠っていたのだと理解した。


(そっか……買い出しが終わって、葵とウデさんと一緒に部屋の整理をしてて……)


 片付けが一段落した所で、ちょっと休憩のつもりで縁側で葵とお喋りしていたはず……。

 そこからの記憶が無いという事は、縁側でお喋りしている内に眠ってしまったという事か…?


「葵…?」


 一緒に居たはずの葵の姿を探して視線を泳がせると、すぐ隣から人肌の体温を感じた。

 視線を左に向けると、思った通り、そこには未だに気持ち良さそうに寝息を立てて眠っている葵の姿があった。


「ふふ。葵ったら、よだれ出てるよ?」


 歳上のはずなのに、その可愛らしいあどけない寝顔に癒されて、不思議と笑みがこぼれた。


(そう言えば……何だか変な夢を見ていたような気が……)


 起き上がろうと身を捩った時、私は汗でぐっしょり濡れた衣服に気付いて驚いた。

 

「え、えぇ! な、なにこれ?」


 布団まで汗で汚さない内に着替えようと、懐の合わせを緩めた時―――何故か隣から視線を感じて、そちらへ視線を向けた。


「あ。どうぞお構いなく♡」

「ッ―――」


 隣で眠っていた葵……の、更に隣に横たわる、六本腕の人(・・・・・)の存在を見つけた。

 男性寄りの中性的で端整な顔立ちのその人物は、満面の笑顔で私の着替えの続きを促してきたが、当然居ると思っていなかったその人物の登場に、私が驚いたのは言うまでも無く―――盛大な悲鳴をお屋敷中に轟かせた。



「何か言う事があるよな? ツムギ

「可愛い子の寝顔見たさに部屋にこっそり侵入してごめんなさい」

「……」


 私の悲鳴を聞きつけて、真っ先に駆けつけてくれたなつ兄様。

 部屋の端に逃げている私と、私と葵が寝ていた布団の隣で横たわる六本腕を持つ“絡新婦ジョロウグモの妖まじり”―――紡さんの姿を確認して、なつ兄様は綺麗な顔を引き攣らせた。

 その後は、目にも留まらぬ速さで紬さんを縄で拘束して(というかこの縄は何処から持って来たんでしょう?)部屋の外へ放り出した。


「……ごめんね、椿ちゃん。もう昼餉だから葵も起こしてあげてくれる?」

「あ…えっと……は、はい」


 まるで何事も無かったかのような穏やかな笑みを浮かべて、部屋の襖を閉ざす、なつ兄様。

 閉ざされた襖の奥から只ならぬ怒気を感じるけど、今は一先ず、人目が無い内に着替えを済ませよう。

 気に入っていた海老茶式部の様な衣服を脱ぎ、先程買ったばかりの淡い空色の着物に袖を通す。

 葵が悩みに悩んで決めてくれた桜色の帯を結び、揃えて買った桜の髪飾りを付けて、身形を整えた。

 そして―――そろりと襖を開けて、部屋の外を覗き見ると……縄で縛られて正座する紡さんを仁王立ちで見下すなつ兄様の姿があった。


「何か言う事があるよな? 紡」

「可愛い子の寝顔見たさに部屋にこっそり侵入してごめんなさい」

「……」

「ほう? 他には?」

「……………あわよくば、可愛い子の生着替えを眺めようとしてごめんなさ―――っいたぁ!」


 何故か照れながら邪な願望と謝罪を口にする紡さんの頭に、なつ兄様は拳骨を落とした。

 ごつんっ…と鈍い音がしたけれど、“大鬼オオオニ”の力を有するなつ兄様からしてみれば、大分力を制御していた事だろう。

 それでも、頭の痛みに悶え転がる紡さん………そう言えば紬さんって男性寄りの容姿だけど、女性だったはずでは?


「俺としても女性に手を上げたくは無いんだけどね。それにしたってお前は何度注意しても聞く耳持たない常習犯すぎて、甚だ困っているんだぞ?」

「うぅ……だって! 僕と違って他の女の子ってちっちゃくて可愛いんだもん! ちょっとくらい目の保養にしたって良いじゃないのよ!」

「本音は?」

「趣味よ。あわよくば小説のネタの足しに女の子の柔肌を精密に表現したくて―――ったぁ!」

「お前。昼餉抜き」

「……」

 

 今度は強めのデコピンを紡さんの額に打ち込むなつ兄様。

 さっきの拳骨よりも鈍い音を立てて、縛られたままの紡さんは仰け反って床に倒れた。

 目を回して、ぴくりとも動かなくなった様子から察するに、意識を飛ばしてしまったらしい。


「はぁ……あ、ごめんね椿ちゃん。こいつにはちゃんと言い聞かせておくから」

「い、いえ……あの、紡さん、大丈夫ですか?」

「頭の方? いやぁ、失礼かもしれないけど大分末期だよ。まぁちょっと可笑しいくらいが面白い物語を書けるらしいけど実害が出るのはねぇ?」

「あ、いえ。今の衝撃の方です」

「あ、そっち? それは平気。俺達“妖まじり”は多少の怪我なんて瞬時に治せるからね」

「は、はぁ…」


 私は廊下に倒れる紡さんに視線を戻す。

 確かにデコピンを受けて赤くなっていた額は、見る見る内に赤みが引いていく。


「さぁ。紡は此処に放置しておいて良いから、俺達は大広間に行こう。昼餉も出来上がってるよ」

「は、はい!」


 「先に行ってるよ」と笑顔を向けて、廊下の先に姿を消すなつ兄様。

 本当にその場に紡さんを残して行ってしまうとは……。


「本当に……毎度懲りてないんですね」


 私も自分の言動には気を付けようと気持ちを改めて、この騒ぎにも関わらず寝続ける葵を起こして、一緒に大広間に向かった。

 葵は、廊下に転がる紡さんをちらっと横目で見ただけで、これと言って何もせずに通り過ぎて行った。


「………」


 本当に………常習犯なんですね、紡さん………。

 今夜から就寝前に、襖につっかい棒を設置しようと決めた。


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