【良い子より、我儘に】
雨の中をゆったりと走る牛車の妖怪“朧車”こと、轟さんの中で、心地良い揺れに誘われて眠気が襲って来た。
棗さんは物見から雨が降る街の様子を眺めていて、葵は誘われる眠気に負けたらしく、壁にもたれ掛かって眠ってしまった。
私も、うつらうつら……意識が飛ばないように、重い瞼が閉じないように必死に意識を物見の外の景色に向ける。
「椿ちゃん、眠いの?」
だけど、眠たそうにしている私の様子に気付いた棗さんの声で、意識が一気に覚醒した。
「す、すみません……轟さんの中が心地良くて、つい…」
「無理もない。昨日の今日で、ちゃんと休めていなかっただろう? 俺も葵も配慮が足りなかったな。ごめんな、無理させて」
「い、いいえ! 全然良くして戴いてますし……これまでの三年間に比べれば、極楽の様ですよ」
「ほんとに?」
そう聞き返す棗さんの赤い瞳は、まるで私の心の奥まで見据えているように真っすぐだった。
けれど、鋭さは無い―――寧ろ、優しく見守る様な眼差しだ。
「椿ちゃんってさ、未だに自分の事を“無条院家の居候”みたいに思ってない?」
「えっ」
私は顔の前で両手をぶんぶん振った。
「と、とんでもありません! お名前も戴きましたし、私は本当に無条院家の養子としての覚悟を決めております」
「覚悟、ね」
その時、棗さんの顔が少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「確かに他所の家に養子入りするのには覚悟が要る事だと思うよ。だけど、それだと椿ちゃんが大分無理しているように思えるんだよ」
「無理だなんて……そんな事は……」
「まぁ無理というよりも、堅苦しいって言い方になるのかな。主や葵の好意に対して、嬉しいって気持ちは確かにあるんだと思うけど、申し訳ないとか、迷惑って気持ちの方が強いだろ?」
「あ…」
その言葉に、数刻前の葵とのやり取りを思い出した。
『私にとって、無条院家は命の恩人だから……迷惑はかけたくなくて』
『椿―――それはダメ。うち等はもう家族。そんな風に思うのは居候でしょ?』
『そうかもしれないけど…』
『そうなの。迷惑とか考えちゃダメ』
「……葵にも、同じこと言われました」
「だろうね。葵は特に他の義兄弟妹達との仲を大事にしているから、椿ちゃんみたいに変に此方に気を使ってる子の事を放っとけないんだよ」
「……」
葵はずっと、私の事を気にかけてくれている。
でもそれは―――私が、無条院家の新入りだったから……そう、思っていたのも事実。
「私は……生まれ育ったのに、迫害を受け続けた【白城の里】から連れ出して下さった無条院家の皆様に、返しきれない恩があります。感謝の念を一時たりとも忘れることなく、生涯返し続ける事が、私の天命だと思っていました」
「うん。そう思ってるんだろうなって思ってた」
やっぱり、棗さんには私の心の内が読まれてしまっているみたいだ…。
この思いを隠していたつもりはない……けれど当然、それを表立たせているつもりもなかった。
心境を見透かされて、若干の恥ずかしさと情けなさで、顔が赤くなる。
「だけどね椿ちゃん。そんな風に考えながら生きるのって、しんどくない?」
「しんどい…ですか?」
「“恩を返さなきゃ”とか“私の所為で”とか……“甘えてはいけない”みたいな風に考える事」
「ッ…」
それは棗さんが、『アマリリス』に向かう際の会話から勘付いた私の心境―――
「見抜かれていたんですね…?」
「椿ちゃんは賢くて真面目で、とても良い子だよ。だけどこれからは、自分の素直な気持ちを一番大事にしてあげてほしいな。それは俺達、無条院家の総意であり、椿ちゃん自身もきっと、ずっとずっと自分を好きになれる最善の方法だよ」
「私の素直な気持ち…?」
「例えば、次に『アマリリス』に行ったら、一番に何を頼む?」
「え? えっと……プリン、でしょうか?」
「珈琲はもう頼まない?」
「うっ……か、香りは好きなんです! けど味が……ちょ、ちょっと私にはまだ早かったと言いますか………………すみません。実は苦手でした」
あの苦みを思い出すだけで、またプリンを頬張りたくなる衝動に駆られる。
私の返しに対して、棗さんは肩を震わせて笑った。
「そっかぁ、やっぱり苦手だったかぁ」
「うぅ…」
「でもね、椿ちゃん。俺達が聞きたいのは、寧ろそっちなんだよ」
「そっち?」
「椿ちゃんが好きになったのはプリン。それはあの幸せそうな顔を見れば誰だって分かるよ。だけど、珈琲が苦手な事は、今も少し隠そうとしたでしょ?」
「は、はい…」
「どうして?」
「え?」
「何で隠さなきゃって思った? 俺の奢りだから? あれだけ欲しがったのに考えが変わった事が申し訳なかった? メラさんへの罪悪感?」
「あ……その……」
「違うよね。椿ちゃんは、あの里に居た頃と同じで―――良い子でいなきゃって思ってる」
「―――!」
「違う?」
「そ、そんな…」
そんなつもりはない……ない、なずなのに……図星を突かれた気がした。
全身に力が入ったのが分かる……反論する声も出せない程に、急激に喉が渇いていく……。
「キミは他人の顔を窺い過ぎだ。相手にとって最善とされる回答をいつも思考している」
「……」
「だけど、キミがそうなってしまったのは、他でもないあの冷血な里の人間達の所為だ。三年間の冷遇は、椿ちゃんにとってさぞ根深い心の傷になっているんだろ……キミが無自覚で他人の顔色を窺う様になってしまう程にね」
「……」
いつの間にか、袴に皺が出来る程強く握りしめていた。
もう、白城院家との繋がりなんて綺麗さっぱり断ち切ったと思っていたのに、私はまだ……怒られる事を恐れて心を殺す人形のままだったなんて……。
(悔しい……悔しい……悔しい……!)
無条院家の皆様にここまでしてもらっておきながら、全然前を向けていない自分自身が……とてつもなく、憎たらしい。
「椿ちゃん」
袴を強く握る私の手を、棗さんの大きな手が包み込む。
温かい手……私を冷たい檻の中から救い出してくれた手……その温かさは、不思議と心を落ち着かせてくれる。
「ごめんね、椿ちゃん。キミを追い詰めたい訳じゃないんだ。寧ろ大いに介抱してほしい。嫌な事、怖い事、苦手な事、なんだって良い。誰だって得手不得手があるんだ。だったら皆で補えば良い。頼って何ぼ。怠けたいなら主に、力仕事は勇に、細かい作業は綺に、難しい言葉は紬に、空を飛びたいなら昴や暁に、楽しい事は天に、お洒落の事は葵に、家事の仕方はウデさんや俺にね」
「補う…頼る…」
「そんなにね、難しく考えない事だよ。人生は一度きり。おまけに俺達は人だった頃より長命になったんだ。これから長く生きて行くのに、恩だ何だと自分に重荷を負わせる必要はない。というか、そんなの背負い込まれたら逆に困るね、うん」
「え…えー…」
そ、そんな事言われても……無条院家の養子として、『椿』として新たに生を受けた私の生き甲斐は『恩返し』だけだったのに……なら、どうすれば良いの?
「とりあえず当面の目標は、椿ちゃんが『嫌な気持ち』をちゃんと言えるようになろう。さっきみたいに珈琲が苦手だって正直に教えてくれたみたいに、これからは『嫌い』な事を沢山言えるようになろう」
「そ、それはあまりにも幼稚と言いますか……子供っぽくありませんか?」
「そうだよ? だって俺達はこれから先、急いで大人になる必要は無いんだからね」
棗さんは無邪気な子供の様に笑った。
端整な顔立ちと大人びた言動……だけど、この人からは時折、こういった幼さを感じる時がある。
考えてみれば、そうだ―――本来の齢が四十を超えていても、この人は幼い頃に“妖まじり”になり、通常より長く生きられる存在になった人。
身体は大人に変化してても、心はずっと幼い頃のまま…。
「……もしかして棗さんって、結構面倒臭がりなんですか?」
「ん? あっはっは! その通り。俺は昔っから面倒臭い事が『大嫌い』だよ」
“大嫌い”―――子供っぽい言い方だけど、何度かとても楽しそうに口にしている。
(『嫌い』……そんな言葉を口にしたのは、いつ以来だろう……)
「………ふ、ふふっ」
何だろう? 何だか馬鹿馬鹿しくなってきた。
生き甲斐だとか、良い子でいなきゃとか、甘えられないとか……そんな重たい物、何で背負ってたんだろう。
「もう、全部手放しても、本当に良いのかもしれませんね」
「そうだね。善意も義理も恩義も、全部背負うなんて到底無理な話なんだから。気楽に行こ~ぜ?」
「何だか私、棗さんの面倒臭がりがうつっちゃったみたいです」
「あれ? 俺の所為?」
「ふふっ。はい、棗さんの所為です」
「あっはっは! じゃあ、今回は俺の勝ちって事で―――」
私の手を包んでいた大きな手が、そのまま私の頭の上に置かれる。
わしゃわしゃと撫でられる感覚は、愛しむ撫で方とは少し違う。
より親しい……そう、これはまるで―――仲の良い兄妹の触れ合いのようで…。
「改めて、これからよろしくな―――椿」
「ッ……はい―――なつ兄様!」
この時、私はまた涙を流していた。
嬉しい気持ちが雫となって溢れ出る。
なつ兄様に撫でられている間、ずっと耳と尻尾がぴこぴこ動いていた。
だけど、無自覚で動いてしまう耳と尻尾に、もう恥ずかしさは無い。
だって私は、なつ兄様が、葵が、無条院家の皆様が―――“大好き”だから。




