気が付いたらスラッシャー映画のビッチ枠でした
「おい、大丈夫か?」
目を開けると、そこには知らない男がいた。
金髪に青い目。二十歳そこそこの筋骨隆々とした男が、上半身裸で至近距離から私の顔を覗き込んでいる。
「……は?」
「頭打っただろ。大丈夫か?」
言われてみれば後頭部がズキズキと痛む。恐る恐る手を伸ばして触れてみるが、血は出ていない。ただ、触っただけでも顔をしかめるくらいには痛かった。
「……どこ、ここ」
「は?」
男が怪訝そうな顔をする。私は慌てて身体を起こし、周囲を見回した。
青空が見える。すぐ横には道路。
……外?
足元にはテントや寝袋、クーラーボックスにバッグ。キャンプ用品が雑然と積まれ、その間に厚手のマットが敷かれている。
そこでようやく気づいた。
ここ、ピックアップトラックの荷台だ。
ふと自分の胸元へ視線を落とす。
「…………」
おっぱいがむき出しだった。
……あれ。私、こんなに大きかったっけ?
いや、そこじゃない。
視線を横へずらすと、マットの上にブラジャーが落ちている。さらに恐る恐る下を見ると、デニムのショートパンツはボタンもファスナーも開いたまま腰からずり落ちかけ、その下から下着が覗いていた。
「なんで!?」
「なんでって……お前が荷台でいいって言ったから」
「何が!?」
「何がって……」
男が自分の腰元を見る。
私も見た。
ベルトは外れ、ジーンズの前も全開だった。
「うわあああああああ!?」
「お、おい!?」
反射的に脚が跳ね上がり、足にぐにょりと嫌な感触が返ってきた。
「――Oh……っ!?」
男は両手で股間を押さえたまま身体をくの字に折り、その場に崩れ落ちた。そのままマットの上で横向きになり、ひゅっ、ひゅっと妙な呼吸を繰り返し始める。
私はそれどころではない。慌ててショートパンツを引き上げてボタンとファスナーを閉め、クーラーボックスの脇に脱ぎ捨てられていたTシャツを頭からかぶった。
ようやく胸元が隠れたところで、男を見る。
まだ悶絶していた。
「……だ、大丈夫?」
「だい……じょうぶに……見えるか……」
「ご、ごめん」
それからさらにしばらくして、男はようやく身体を起こした。涙目のまま私を睨みつける。
「な、何すんだよ、ジェシカ……! 使い物にならなくなったらどうしてくれるんだよ……!」
ジェシカ。
誰だ、それ。
――いや。
私?
頭の中が混乱する。私は日本人だ。日本での日常生活も、仕事もはっきり覚えている。
なのに、ジェシカと呼ばれた瞬間、それとはまったく別の記憶が頭の中へ流れ込んできた。
私はジェシカ・ハーパー。二十一歳。大学生。チア部のサブリーダー。
目の前でまだ股間を押さえている男はブラッド。同じ大学の……まあ、友達。
少し離れたワゴンのところにいる連中のことも分かる。
ケビンはブラッドの友達で、エミリー狙い。マイクはエミリーと同じゼミで、たまに話す程度には親しい。どうやらケビンは、それを当てにしてマイクも誘ったらしい。トムとサラは付き合っている。
ちなみにワゴンはマイクが父親から借りてきたもので、その助手席にはエミリーが乗っている。
……ケビン、それマイクを誘ってよかったの?
まあ知らんけど。
顔を見れば、名前も関係も分かる。ついさっきまで一緒に馬鹿話をしていた記憶まである。
私たちは大学の仲間たちと夏休みの旅行中だった。さっき車を停めたのは休憩のためで、そこでブラッドに誘われた。
『どこでする?』
『荷台でいいじゃん?』
そう言って荷物を両脇へ寄せ、マットを敷いて服を脱いだ。そこへ寝転がったところで――ゴン。
何かに後頭部を思い切りぶつけた。
そして今に至る。
「…………」
私は後頭部を押さえた。
日本で働いていた記憶も、ジェシカとして生きてきた記憶も、どっちも自分のものとしか思えない。
しかも身体まで違う。
さっき見た。
主に胸を。
私は恐る恐る自分の身体を見下ろした。
……うん。どう見ても日本で働いていた頃の私じゃない。
何がどうなってるのよ。
ブラッドがようやくまともに動けるようになった頃、前方に停まっているワゴンのほうから女の声が飛んできた。
「ブラッドー! あら、もう終わったの?」
「それどころじゃねえよ……」
ブラッドが股間を押さえたまま呻く。
一拍置いて、ワゴンの周りから爆笑が上がった。
「HAHAHA!」
私はTシャツの裾を引っ張りながら、その光景を呆然と眺める。
私、もしかして結構ヤバい女なのでは?
いや、私じゃない。ジェシカが。
……今は私だけど。
「ほら、そろそろ行くぞ」
ブラッドがまだ若干内股になりながら荷台から降りた。
「グラス湖までまだ結構あるんだから」
「…………」
グラス湖。
妙に引っかかった。
どこかで聞いたことがある。
「ねえ」
「なんだよ」
「あなた、ブラッドよね?」
「……頭、大丈夫か?」
「いいから。ブラッドなのね?」
「そうだけど」
「で、私がジェシカ・ハーパー」
「そうだよ。お前、マジで病院行ったほうがよくないか?」
グラス湖。ブラッド。ジェシカ・ハーパー。
何かが頭の奥に引っかかっている。
私はワゴンのほうを見る。
ケビン、エミリー、マイク、トム、サラ。
「…………待って」
この名前。このメンバー。この行き先。
知ってる。
「『グラス湖畔は血まみれ曜日』……」
「何?」
間違いない。
全部、『グラス湖畔は血まみれ曜日3』と同じだ。
「これ、『血まみれ曜日3』の世界!? 転生ってやつ!?」
「は?」
「え、そういうのって乙女ゲームとかVRゲームが定番じゃないの!? なんでスラッシャー映画!?」
ブラッドが完全にヤバいものを見る目で私を見ている。
そんなことはどうでもいい。
よりにもよって『グラス湖畔は血まみれ曜日』。
待って。そもそも、なんでこんなことになったのよ。
確か、三徹明けで帰宅した私は、そのまま寝ればいいものを、エナジードリンクをストゼロで割った頭の悪い飲み物を片手に、大好きな『グラス湖畔は血まみれ曜日』シリーズをまた一作目から見返していた。
画面の中では、グラス湖へ遊びに来た若者の一人が、何も知らずに薄暗い小屋へ入っていく。
背後にジャクソン。
気づかない。まだ気づかない。
『後ろ! 後ろ! いや見るな! そのまま行け!』
背後から振り下ろされたナタが首を一閃した。
頭が人形のように宙を飛び、一拍遅れて首を失った身体から噴水のように血が噴き上がる。そのまま身体だけが二、三歩よろめき、床へ倒れ込んだ。
『ヒャッハー! やったぁ!』
私はベッドの上で拳を突き上げ、グラスをあおった。
続いて、さっきまで恋人とイチャついていた女が一人でシャワールームへ向かう。
『来た来た来た』
曇ったガラスの向こうに、大きな影が映る。女は何も気づかないままシャワーを浴び続けている。
『ビッチ死すべし! 慈悲はなし!』
その後も、酒を飲んでいた男が一人になれば『お前ら学習しろよ!』と画面に向かって叫び、ジャクソンが現れれば歓声を上げた。
私は残り少なくなったグラスにエナドリを注ぎ、さらにストゼロを足した。
三徹明けの身体にアルコールとエナドリが完全にキまって、テンションがおかしくなっていた。
それからもエンドロールが流れるたびに次を再生した。
『よし、次』
気づけば何時間も経っていた。
記憶は、その辺りから曖昧だ。
でも、ジェシカがどうなるかは覚えている。
確か序盤で殺される。それもブラッドとベッドでイチャついているところを、二人まとめて串刺しだった。
「…………」
私はそっとブラッドを見た。
「なんだよ」
こいつと。
ベッドで。
串刺し。
ついさっきまで私は、こういう場面で大喜びしていた。
ビッチ死すべし。
慈悲はなし。
……。
「慈悲はあっていいと思う」
「さっきから何の話してんだよ?」
ただ、シリーズの細かい展開までは覚えていない。印象的な死亡シーンは覚えていても、誰がいつ死ぬかなんて自信がない。
このままじゃ殺される。どうすれば――。
いや、待て。まだグラス湖には着いていない。
だったら。
「ね、ねえ、行き先、グラス湖じゃなくてもいいんじゃないかなー、なんて……」
できるだけ自然に切り出したつもりだったが、声が盛大に裏返った。
ブラッドが怪訝そうに私を見る。
「他のとこ全部却下してグラス湖に決めたのお前じゃん」
「…………え?」
「『本当にジャクソンが出るか確かめようぜ』って」
「…………」
その瞬間、ジェシカの記憶が蘇った。
『じゃあ、シルバー湖は? キャンプ場もあるって』
マイクがスマホの画面をみんなに見せる。ソファに寝転がっていた私は、一瞥しただけで手を振った。
『去年行ったじゃん。却下』
『じゃあレッドウッド・キャンプ場』
『何もない。つまんない』
また却下。マイクが露骨に嫌そうな顔をする。
『リバーサイドは?』
『家族連ればっかじゃん』
『お前さっきから文句しか言ってねえぞ』
『だってつまんないんだもん』
私はスマホをいじりながら、テーブルの上のポテトを一本つまんだ。
『じゃあどこがいいんだよ』
『んー……』
検索結果を適当に流していた指が止まる。
『あ、グラス湖って知ってる?』
その名前にブラッドが顔を上げた。
『あの殺人鬼が出るってとこ?』
『そう!』
私は勢いよく身体を起こし、スマホを全員へ向けた。
『そこでキャンプしようよ!』
『マジで?』
『面白そうじゃん!』
『いや、でもあそこ――』
私は聞く前にスマホを掲げた。
『グラス湖に決定!』
『人の話聞けよ!』
間違いない。
全部、私が言ったことだ。
「そうだった私の馬鹿ぁぁぁぁぁ!!」
頭を抱えてしゃがみ込む私を、ブラッドが呆れた顔で見下ろす。
「だから大丈夫か、お前!?」
大丈夫なわけがない。このまま大人しく殺されに行くわけにもいかない。ジェシカが普通の旅行先を片っ端から蹴っていたとしても、まだ何かあるはずだ。
私は勢いよく立ち上がった。
「ねえ! やっぱり行き先変えよう!」
ワゴンへ戻りかけていた全員が振り返る。
「はあ?」
「海! 海にしよう! 今から海行こう!」
一瞬、全員が黙った。マイクがワゴンのドアに手をかけたまま、ものすごく面倒くさそうな顔をする。
「……ジェシカ。海までどれだけあると思ってんだよ」
「…………」
そうだった。ここから海なんて、今日中に行ける距離じゃない。
「じゃあ町に戻ろう! ホテル取って飲もう!」
「ホテル高いから嫌だって言ったのお前だろ」
即答された。
「だったら誰かの家!」
「『家族がうるさいから嫌』って言ったのもお前じゃん」
「…………」
過去の私、なんで逃げ道を片っ端から潰してるの。
まだだ。まだ何かある。
私の視線が二台の車を捉えた。
「車!」
「車?」
「そう! どこか調子悪くない!? ガソリンは!?」
ブラッドが呆れた顔でピックアップを親指で指した。
「お前が『また途中で壊れたりガス欠したりしたら、もうさせてあげないから』って散々うるさかっただろ。だから整備もガソリンも完璧だよ」
「…………」
また、ジェシカの記憶が蘇った。
車自体は悪くない。むしろ結構いい車だ。
問題は、乗っている男だった。
一度パンクして予備タイヤに交換したのに、新しい予備を買わないまままたパンクして立ち往生。夜に出かけたときはライトを点けっぱなしにしてバッテリーを上げ、帰れなくなった。
そして極めつけが、楽しみにしていたライブへ向かう途中。
『ねえ、ガソリン大丈夫なの?』
『大丈夫だって。途中で入れるから』
『本当に?』
『余裕だって』
そのしばらく後、ピックアップは路肩で完全に止まっていた。
『…………』
私はスマホの時計を見る。
『……もう始まってるんだけど』
『いや、まだ途中からなら――』
『だからガソリン入れろって言ったでしょ!!』
あれ以来、遠出するときは車の点検と給油をしつこいくらい確認するようになったらしい。
「……そりゃ言うわ」
「何が?」
「なんでもない」
そこについては過去の私が正しい。正しいんだけど、そのせいで今の私の逃げ道が完璧に潰れている。
「……ちなみに、予備のガソリンって?」
「あれ」
ブラッドが荷台の奥を指さした。
「ほら、お前が頭ぶつけたジェリ缶」
「…………」
私はゆっくり振り返った。
キャブ側、テントとクーラーボックスの間に赤い金属製のジェリ缶が固定されている。さっき敷いたマットの下には、その角がちょうど入り込んでいた。
……なるほど。勢いよく寝転がって、マット越しにここへ頭をぶつけたのか。
「……待って」
改めて荷台を見渡す。
テント、折り畳み椅子、クーラーボックス、寝袋、バッグ、ジェリ缶。荷物を両脇へ寄せ、その隙間に無理やりマット一枚分の場所を作ってある。
狭い。
とんでもなく狭い。
「……ここで?」
「何が?」
私はマットを指さした。
「私たち、ここでしようとしてたの?」
「そうだけど」
「こんな狭いところで?」
「今日は荷物多いけどな。いつもの調子で寝転がったら、今日はそこにジェリ缶があっただけだろ」
「……いつもここで?」
「そうだけど」
「…………」
私は両手で顔を覆った。
「知りたくなかった!!」
「何なんだよ!」
過去の私が今の私の退路を潰しているだけでも最悪なのに、知りたくもない私生活まで次々と発掘されていく。
「もういいわ……」
精魂尽き果てた。
ブラッドが運転席へ乗り込み、私も助手席へ回ってシートに沈み込む。
好きにしろ。もう知らん。
いや、勝手にされたら私も死ぬんだけど。
前ではマイクが父親から借りてきたワゴンが走り出した。ブラッドもエンジンをかけ、その後を追う。
私は背もたれに身体を預け、窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めた。
まだ殺人鬼にも会っていないのに、もう帰りたい。
* * *
それから一時間ほどして、私たちは本当にグラス湖へ到着してしまった。
「着いたー!」
前を走っていたワゴンから仲間たちが歓声を上げながら降りていく。ブラッドがピックアップをその隣に停めたが、私は助手席から動けなかった。
「おい、着いたぞ」
「分かってる……」
重い身体を引きずるように車を降りる。
湖畔には古びた管理棟がぽつんと建ち、その周囲にいくつかの小屋とキャンプサイトがある。人影はなく、管理棟の窓にはカーテンが引かれ、入口には頑丈な鍵がかかっていた。
マイクが周囲を見回し、両腕を広げる。
「貸し切りじゃん。最高!」
「最高じゃない!」
私は反射的に叫んだ。
「こういうときに誰もいないのはダメなの!」
「なんで?」
「何かあっても助けを呼べないでしょ!」
「例えば?」
「殺人鬼とか!」
一瞬の沈黙。
ケビンがニヤリとする。
「ジャクソンか?」
「そうよ!」
「HAHAHA!」
「笑うな!」
駄目だ。誰も本気にしていない。
こいつらにとってジャクソンは、昔この辺で若者を殺した男が、今も白いマスクをかぶって湖の周りをうろついている――そんな定番のローカル都市伝説にすぎない。
しかも、そもそもジャクソン目当てでここへ来ようと言い出したのは私だ。さっきまで一番はしゃいでいた本人が、突然「ジャクソンが出る!」と騒ぎ始めたのだから、笑われるのも無理はない。
ここが映画の世界で、ジャクソンに殺されるなんて話したところで、頭がおかしくなったと思われるのがオチだろう。ならば、せめて死亡フラグだけでも潰すしかない。
「みんな、ちょっと集まって!」
私はパンパンと手を叩いた。荷物を降ろしていた連中が、面倒くさそうにこちらを見る。
「なんだよ」
「いい? 絶対に一人になっちゃダメよ。トイレも二人以上! 薪を取りに行くのも二人以上! 暗くなったら勝手に歩き回らない! いいね!?」
ブラッドがたまらず吹き出した。
「教育ママみたいだな」
「HAHAHA!」
「笑うな、命がかかってるの!」
「よし、テント張ったらひと泳ぎしようぜ!」
ケビンがバッグを地面へ放り出し、湖を指さした。
「ダメ!」
「なんでだよ!」
「湖に入っちゃダメ!」
「なんで?」
「…………」
死亡フラグだからだよ!
そんなことを言えるわけもない。
「……危ないから!」
「湖なんだから多少は危ないだろ」
「そういう意味じゃない!」
ケビンが口元を緩める。
「なんだよ、しらけるなあ。ジェシカ、さっきまで一番楽しみにしてたじゃん」
「さっきまでの私は大馬鹿者だったの!」
「自分で言うなよ!」
再び笑い声が上がる。
結局、テントを張り終えると、みんなそのまま湖へ泳ぎに行ってしまった。私は誰も一人にさせまいと、半泣きになりながら後ろをついて回る羽目になった。
「沖まで行かない!」
「はいはい!」
「潜らない!」
「分かったって!」
「一人で岸に戻らない!」
ケビンが水をかきながら振り返る。
「お前、俺の母ちゃんよりうるせえぞ!」
「ママでもなんでもいいわよ! 生きて帰れたら何でもしてあげるから!」
ケビンの動きが止まった。
「……マ、マジで!?」
「おいケビン!」
ブラッドがその肩を掴む。
「何考えてんだ?」
「や、やだなあブラッド。俺がお前の彼女に手を出すわけないだろ?」
「今の間は何よ!」
湖に笑い声が響いた。
幸い、夕方になるまで何事も起きなかった。
キャンプサイトへ戻ると、みんなは夕食の準備を始めた。ケビンが焚き火台のそばに置かれた薪を見て呟く。
「薪、足りなくね?」
私はピクリと反応した。
ケビンが森のほうへ目を向ける。
「ちょっと取ってくるわ」
「ダメ!」
「またかよ!」
私はケビンの前に立ちはだかった。
「一人で森に入っちゃダメ!」
「じゃあブラッド、一緒に行こうぜ」
「俺か?」
「二人でもダメ!」
ブラッドが呆れた顔で振り返る。
「さっき二人以上って言ったじゃねえか!」
「…………じゃあ全員!」
「薪拾いに七人で行くのかよ!」
笑い声が上がった。
「もういいって。そこらへんで拾ってくるだけだから」
「あ、待って!」
制止する間もなく、ケビンは懐中電灯を手に森へ入ってしまった。
「ケビン!」
私は数歩追いかける。
「すぐ戻るって!」
ケビンが振り返って手を振り、その光が木々の向こうへ消えていく。
「…………」
私とブラッドが殺されるのは、確か序盤だったはずだ。
なら、ケビンがここで死ぬわけじゃ――。
「いやダメでしょ!」
「何がだよ」
「一人で森に入ったのよ!?」
「薪拾いにな」
「それがダメなの!」
そもそも死亡順なんてほとんど覚えていない。別の作品と混ざっている可能性だってある。
「探しに行く!」
「まだ行ったばっかだろ」
森へ向かおうとしたところで、ブラッドに肩を掴まれた。
「ほら。暗くなる前に飯の準備するぞ」
「でもケビンが!」
「薪拾いに行っただけだって」
私の心配をよそに、みんなは夕食の準備を再開した。
エミリーとサラはクーラーボックスから材料を取り出し、トムは焚き火台の準備を始める。マイクも荷物を漁り始め、私もエミリーから缶詰を渡された。
「ジェシカ、それ開けて」
「う、うん」
缶切りを動かしながら森を見る。
「ジェシカ、開いた?」
「え?」
「缶」
手元を見る。
「あ」
全然開いていなかった。
「貸して」
エミリーに取り上げられ、私はまた森へ目を向ける。
トムが焚き火台へ小枝を組み終えたところで、とうとう我慢できなくなった。
「……遅くない?」
「誰が?」
「ケビン!」
ブラッドが腕時計を見る。
「まだ二十分くらいだぞ」
「二十分もよ!」
「薪拾ってんだから普通だろ」
「でも――」
ガサッ。
森の奥で何かが鳴った。
「…………!」
また茂みが揺れる。
何かがこちらへ近づいてくる。
「……来た」
「何が?」
「ジャクソン」
「またそれかよ」
私は焚き火台の横に置かれていた薪を一本掴んだ。
茂みが大きく揺れる。
「うわああああああ!!」
「うおっ!?」
飛び出してきた人影へ薪を振り上げる。
「待て待て待て! 俺だ!」
「…………」
ケビンだった。
片腕いっぱいに薪を抱え、反対の手にも何本もの枯れ枝を持っている。
「何すんだよ!?」
私は薪を振り上げた姿勢のまま固まった。
「…………生きてる」
「見りゃ分かるだろ!」
慌てて薪を下ろし、ケビンを上から下まで確認する。怪我はない。血もついていない。どこからどう見ても健康そのものだ。
「ほら、何もなかっただろ」
ケビンが薪を焚き火台の横へ落とす。
私は恐る恐る森の奥を見る。
「……ジャクソン、いなかった?」
「いたいた。向こうで薪拾ってた」
「えっ!?」
勢いよく振り返ると、ケビンが吹き出した。
「嘘だよ!」
「HAHAHA!」
「馬鹿ぁ!!」
反射的に薪を投げつけると、ケビンが慌てて身をかわした。
「危ねえ!」
みんなの笑い声が上がる中、私はその場にへたり込んだ。
一人で森へ入ったケビンは、二十分もして薪を抱えて普通に帰ってきた。
……あれ?
映画でも、こんなだったっけ?
そういえば、予備のガソリンなんて映画に出てきたっけ?
少なくとも覚えがない。
考えてみれば、今のところ映画と同じなのは、グラス湖という場所、ジャクソンの伝説、それに私たちの名前くらいだ。
……いや、それだけ一致してる時点で偶然じゃないでしょ。
じゃあ、やっぱり映画の世界なの? それとも、名前とか設定が同じだけ?
……どっちにしても嫌なんだけど。
おっぱいは大きいし、セクシーにはなったけど、それはそれ、これはこれだ。
私はちらりとブラッドを見る。
筋骨隆々。いかにもアメリカンマッチョ。
……残念ながら、ああいうのは趣味じゃない。
よりにもよって、なんで趣味でもない男とやりまくってるビッチに転生してるのよ。
私は深々とため息をついた。まあ、殺人鬼に狙われてないなら、そっちのほうが百倍マシだ。それに、ここへ着いてからもう何時間も経っている。それでも誰も死んでない。
そう思い始めると、それまで確信していた記憶まで急に怪しくなってきた。私とブラッドが殺されるのは本当に三作目だった? 序盤だった? そもそも今夜だった?
……駄目だ。どれも自信がない。
* * *
それからも何も起きなかった。
焚き火を囲んで夕食を食べ、酒を飲み、くだらない話で笑う。私は最初こそ森で物音がするたびに振り返っていたが、時間が経つにつれて、それもしなくなった。
何もいない。何も起きない。ブラッドもケビンもエミリーも、みんな普通に笑っている。
「ジェシカ」
「ん?」
隣に座っていたエミリーが私の顔を覗き込む。
「眠そう」
「……疲れた」
大きなあくびが出た。
「今日はずっと一人で騒いでたもんね」
「誰のために騒いでたと思ってんのよ」
「はいはい」
エミリーが笑いながら私の肩を軽く叩く。
「もう寝たら?」
「……そうする」
膝に手をついて立ち上がり、数歩進んだところで振り返る。
「でも、一人にならないでよ。森にも入らない。湖にも行かない。いい?」
「まだ言うの?」
エミリーが呆れたように笑う。その横でブラッドが飲みかけのビールを置き、立ち上がった。
「大丈夫だって。俺が一晩中一緒にいてやるから!」
そう言って私の肩へ腕を回してくる。
「私じゃなくて、みんなの話!」
「俺はお前の心配してんの」
「はいはい。もう寝る!」
腕を振りほどいてテントへ向かうと、ブラッドまでついてきた。
「なんで来るのよ」
「一晩中一緒にいてやるって言っただろ」
「そういう意味じゃ――」
言い終わる前に、ブラッドは私より先にテントへ潜り込んだ。
「ちょっと!」
仕方なく私も中へ入り、寝袋に身体を滑り込ませる。ブラッドは当然のように私の隣へ寝転がると、すぐに身体を寄せてきた。
「ちょ、ちょっと」
「いいじゃん、さっきお預けだったんだからさあ」
そのまま私の上へ覆いかぶさってくる。私は反射的に両手でブラッドの胸を押さえた。
「ちょっと待って」
「ん?」
押しているのに全然離れない。それどころか腰へ腕を回され、そのまま引き寄せられる。
――ヤバい。これ、普通に始める気だ。
「きょ、今日は気分じゃないの! 明日ね!」
ブラッドの顔が目の前で止まった。
「……マジ?」
「マジ! 今日は本当に疲れてるから!」
しばらく私の顔を見ていたブラッドだったが、やがて諦めたように息を吐き、そのまま隣へごろんと転がった。
「なんだよ、もう」
「ごめんって」
私は乱れた寝袋を引き上げ、肩まで潜り込む。
危なかった。
というか、今さらだけど本当にこういう関係なのね、私たち。
隣ではブラッドが腕を頭の下に入れ、早くも寝る体勢に入っている。
「明日だからな」
「……明日の私と相談して」
「おい」
私はブラッドに背中を向けて目を閉じた。
外からはまだみんなの笑い声が聞こえている。ブラッドも隣にいるし、少なくとも今は何も起きていない。
やっぱり、考えすぎだったのかもしれない。
そう思った途端、一日中張り詰めていたものが一気にほどけた。目を閉じると、それから数分もしないうちに深い眠りへ落ちていった。
* * *
「……暑っ」
夜もだいぶ更けた頃、サラは寝袋の中で目を覚ました。額に浮いた汗を拭い、何度か寝返りを打ったものの眠れない。
諦めて身体を起こし、テントの外へ出た。
焚き火はほとんど消え、赤い熾火だけが残っていた。周囲のテントはどれも静まり返っている。
「眠れない?」
突然の声に、サラの肩が跳ねた。
振り返ると、少し離れたところにトムが座っていた。手にしていた空き缶を地面へ置き、立ち上がる。
「……びっくりした。起きてたの?」
「暑くてさ」
トムはTシャツの胸元をつまみ、ぱたぱたと風を送った。
「私も」
サラも襟元を引っ張りながら、何気なく湖へ目を向けた。月明かりが水面に細長く伸びている。
「……泳ぐ?」
「今から?」
「少しだけ。涼しくなったら寝られるかも」
サラが湖へ向かって歩き出す。トムもついていきかけて、ふと足を止めた。
「水着は?」
「テントの中」
「取りに行く?」
サラは暗いテントを振り返り、少し考えてから面倒そうに顔をしかめる。
「……裸でいいじゃん」
「え?」
トムが聞き返したときには、サラはもうTシャツを脱ぎ始めていた。
「お、おい」
服を岸辺へ置いたサラは、そのまま水へ入り、数メートル泳いだところで振り返る。
「ほら、おいでよ」
トムはキャンプサイトを振り返った。どのテントも暗い。
「ジェシカに怒られるぞ」
「寝てるって」
「あいつ今日怖いんだよな……」
「じゃあ来ないの?」
「行く」
トムも服を脱ぎ、湖へ飛び込んだ。
二人でしばらく泳いでいるうちに、火照っていた身体もすっかり冷えた。トムがふざけて水をかければ、サラも笑って浴びせ返す。
やがてトムがサラの腕を掴み、そのまま腰へ腕を回した。サラも逃げようとはせず、二人は唇を重ねる。
しばらくして、サラが唇を離した。
「……ねえ」
「ん?」
サラはトムを見ていなかった。その肩越しに、岸を見ている。
「あそこ、誰かいない?」
トムの動きが止まった。
「え?」
湖畔の木々の間。月明かりの届かない場所に、人が立っていた。
背が高い。大柄な人影だった。
こちらを向いている。
「どこ?」
トムが振り返る。
「あの木のところ」
サラが指をさす。二人で目を凝らすが、誰もいなかった。
「……いないぞ」
「今、いたんだけど」
「木じゃないの?」
「……かな」
二人はしばらく岸を見つめた。風が吹き、木々の枝が揺れる。それだけだった。
「戻ろうぜ」
「……うん」
二人は岸まで泳ぎ、身体を拭いて服を着る。さっきまでのふざけた空気は消え、サラは何度も木々の間へ目を向けていた。
「やっぱり誰もいないって」
「分かってる」
それでもキャンプサイトへ戻る直前、サラはもう一度だけ振り返った。
誰もいない。
やがて二人はテントへ消えていった。
湖畔に静寂が戻る。風が木々を揺らし、湖面に小さな波紋が広がって消える。
しばらくして、先ほどサラが見ていた木の陰から、人影が現れた。
大柄な男だった。
男は動かない。ただ、遠くのキャンプサイトを見ていた。
その顔には、穴の開いた白いマスクがあった。




