8話(随心院)
8話(随心院)
カーテンの隙間から差し込む太陽の光が、学を照らしている。
「ハァ、ハァ……」
浴衣の隙間から見える胸元には、べっとりと汗がにじんでいた。次第に荒くなる呼吸。学の視界が歪む。
「ハァッ!」
跳ね起きるようにして、学はいきなり目を覚ました。悪夢から逃れるように、横に置かれた信太の腕時計を確認する。手で顔を覆い、深く、深く息を吐き出した。部屋の反対側の端では、秋が壁を向いたまま、じっと目をつむっていた。学は何も言わずに立ち上がり、静かに廊下へ出た。
「ピピッ、ピピッ――」
信太の腕時計のアラームが鳴り、みんなが目をこすりながら起き出した。信太がトイレに向かおうと廊下に出ると、その端で、学が昨日渡ってきた橋をじっと見つめていた。
「学、ちゃんと寝たんか」
「さっき起きたとこ」
「ならいいけど……」
みんなが洗濯の手伝いを始めると、学もようやく準備をした。そこへ信太が、ラップに包まれたおにぎりを持ってくる。
「秋が作ってくれたわ」
信太がさすまたを構え、学が包丁と拳銃を身につける。「行こう」
宇治川と平行に走る線路をまっすぐ進むと、駅が見えてきた。ちょうど宇治川と山科川が合流する地点だ。
「この山科川を登れば、山科町に着く」
「学、駅前を見ろ。ロータリーにバス停があるぞ」
そこには2台のバスが放置されていた。
「後ろにあるこじんまりしたやつなら、俺らでも動かせるんちゃう?」
中型のバスだった。信太が親指を立ててグッドサインを送る。線路を渡ってバスの事務所に入り、鍵を見つけ出した。
バスに乗り込み、学が運転席に腰掛ける。キーを回すと、重低音とともにエンジンが始動した。
「こいつ、動くぞ」
信太が手すりに手をかけ、興奮気味に学の横で言った。
「学、免許持ってんの?」
「持ってない」
「……ノリで行くか!」
道路に出ると、都会の惨状とは断然違っていた。所々に乗り捨てられた車や事故車はあるものの、避けて通るには十分な広さがあった。
その日はバスを使って2人で民家を転々と巡り、保存食を集めて回った。周囲の山々は、驚くほどはっきりとした濃い緑色をたたえていた。
夜、食事を終えてから、学は年長メンバーを集めて話し合いを持った。
「とりあえず、8人乗れる車は見つけた。これからは水と食料だけじゃなく、ガソリンも必要になる」
信太があごに手を当てる。
「チューブとかタンクがいるな。ホームセンターに行こう」
みんなの目が一斉に合った。
「ホームセンターといえば」
「コーナンや!」
その夜はスマホを充電して眠りについた。コンセントの横では、遥の補聴器も一緒に充電されていた。
翌朝、みんなを起こして駅へと向かう。途中、線路の向こうにある病院の敷地に、大阪で見たものよりは小ぶりな、屍の山があるのが見えた。
みんなをバスに乗せ、エンジンをかける。
「信太、ナビを頼む」
「運転できそうか?」
「何とかなる」
ガソリンメーターはすでに半分を指していた。バスが住宅街へと入っていく。建物の背は大阪よりも低く、右を向いても左を向いても山に囲まれていた。大阪とは違う、独特の閉塞感が漂う。道端に停車してマップを確認している最中、ゾンビが数体近寄ってきたが、頑丈なバスの中にいれば脅威ではなかった。
しばらくして、目的地であるホームセンターに到着した。入り口には頑丈なチェーンが巻かれている。『緊急事態宣言のため閉鎖中』と書かれた紙が、風に揺られて看板から今にも落ちそうだった。駐車場には一台も車がない。学と信太が店内に侵入して安全を何度も確認し、ようやくみんなを呼び入れた。
「欲しいものがあったら自由に取って、バスの前に持ってきて」
学は太いチューブとバール、そして赤い灯油タンクをいくつか持ってきて、バスのフロントシートに置いた。
ふと見ると、遥が家庭菜園コーナーからきゅうりやトマトといった野菜の種を持ってきていた。
「種、ありがとうな」
学が声をかけると、遥は柔らかく笑った。
「うん。みんなで食べるねん。……三月ちゃん、バスにいてはんの?」
遥の言葉に、京都弁が混じっていることに学は初めて気づいた。
「三月なら店の中におるよ。遥って京都生まれなんか?」
「生まれは京都やねん」
そこへ、秋と信太が話しながら歩いてきた。秋はトイレットペーパーを抱え、信太は木板と工具セットを手にしている。信太の頭には、値札がぶら下がったままの灰色の作業帽子が乗っていた。
「信太、そんな工具持ってきてどうするん?」
「バスの前につけて、ゾンビを弾き飛ばせるようにしようと思ってな」
試行錯誤し、バスのフロントに三角形の大きな「鼻」を取り付けた。
真っ昼間の静まり返った街を、カスタムしたバスで走る。道を塞ぐように放置された車も、バスの鼻で力任せに押し退けることができた。
少し走ると、背の低い石垣が見えてきた。その奥には青々と茂った木々が広がっている。やがて、古風な木造りの、固く閉ざされた門が現れた。学がブレーキを踏む。
「信太、今日はここに泊まる。見回りに行こう。数豊、みんなを頼む」
信太がバスの窓から、門に掲げられた木彫りの文字を見た。
「随心院?」
さすまたを片手に、2人はバスを出た。高い塀にさすまたを引っ掛け、よじ登る。
「学、まだ昼やのにもう泊まるんか?」
「うん。ふみが言ってた『田舎の食料』の件やけど、バスがあればより多くの物資を持って移動できるやろ? 」
「なるほどな。じゃあ、1日くらいゆっくり泊まるか」
門を抜けると、石畳の道がまっすぐ伸びており、左手には広大な木々がそびえ、右手には見事な梅園が広がっていた。いくつかの塔頭がある中、塀に囲まれた小さな寺を選んでみんなを集めた。
「よし、ちょっと行ってくるわ」
数豊と信太、学の3人は武装して再び門を出た。塀の上から、みんなが手を振って見送ってくれる。三月が静まり返った街を見渡しながら、遥に話しかけた。
「もう、ゾンビなんて全然見ないね」
「うちたちも、もういけるんちゃうかなぁ」
3人が歩き出す。数豊が少し照れくさそうに言った。
「また、この3人に戻ったな」
信太が笑ってその肩を組んだ。
門の近くの民家に停まっていた車の給油口を、バールでこじ開ける。チューブを差し込んで息を吸い、ガソリンを赤い灯油タンクへと移し替えていく。タンク2本を満タンにすると、3人は歩いて寺へと戻った。
寺に戻ってスマホを充電しようとしたが、壁のコンセントには電気が通っていなかった。
仕方なく、その日はみんなで庭に出て、サッカーをして遊んだ。
「数豊、めっちゃうまっ!」
「数はサッカー部やったんか」
ひとしきり汗を流した後、全員で日本庭園を眺めた。古い池や、苔むした岩が美しく配置されており、一同はその風情に見とれた。
秋と信太が、並んで庭園の岩に腰掛けている。秋が静かにつぶやいた。
「こんな綺麗な景色、久しぶりに見た気がするわ。ありがとう、学」
学は少し照れくさそうに笑ってみせた。
「明日は食料を集めて、明後日には大津や」
翌日、数豊、学、信太の3人で周囲を歩き回り、必死に食料を集めた。缶詰やペットボトルの水を、バスの後部スペースへ限界まで詰め込んでいく。
その夜、学は暗がりの中でノートを見つめて座っていた。信太がそっと近づいてくる。
「どうしたん」
学が顔を上げた。
「スマホの充電ができてなくてな……」
「ここ電気、通ってないもんな。まずいな」
「大まかな地図は頭に入れてるし、まだ数パーセントはバッテリーが残ってるから、なんとかなるけど……」
うつむく学の横顔を、遥が少し離れた場所からじっと見つめていた。
やがてみんなが寝静まる。眠りについた学の額には、またしても嫌な汗がにじんでいた。




