7話(分かれ道)
7話(別れ道)
翌朝、雨は完全に上がっていた。林に囲まれた社から見上げる空は、雲一つない大青空だった。
学が社から鳥居にもたれる秋とふみへ歩いてきた。
「秋、みんなに準備させて」
秋は社に戻って階段に干しておいた靴の乾き具合を確かめてから、みんなを起こした。
「はい、起きてー。出発だよ」
子供たちが目をこすりながら、ぞろぞろと鳥居へ歩いてくる。昨夜は暗闇で見えなかったが、鳥居を抜けたすぐ目の前には、道路を挟んで中規模の川が流れていた。川の奥へと大きな橋が架かっている。
堤防を登って振り返ると、林に囲まれた鳥居の向こうに、昨日まで彷徨っていた街並みが小さく見えた。道には所々水たまりができ、草木には朝露が残っている。
橋を渡りながら、信太が学に話しかけた。
「この川って、もしかして……」
「淀川ではないけどな。元になってる宇治川と木津川や」
「宇治って……京都に入ったん?」
「うん」
学は相変わらず地図を見つめている。信太が嬉しそうに振り返り、みんなに叫んだ。
「みんなー! 京都に入ったぞー!」
木津川と宇治川が合流して淀川になる、まさにその境界線だった。
「このまま宇治川を遡って、山科っていうところに行く。ここまで来れば、川をたどれば迷わん」
学が橋を渡りきり、「フーッ」と微かな安堵の息を吐いた。
橋を渡ったすぐの場所に、5階建てほどの小ぶりなタワーと、平屋の観光施設のような、古風でありながら新しい建物が佇んでいた。
信太が看板を見て言う。
「これ、『さくらであい館』展望タワーやって」
学が振り返ると、子供たちの眠そうな顔が目に映った。「ここで一旦、休憩しようか」
ふみが手際よく自販機を壊し、冷たい水をみんなで分け合った。鍵を見つけてタワーに登ると、案外眺めが良かった。
北には京都の灰色のビル群がそびえ、西には大阪へと続く淀川が悠々と流れている。そして南側には、さっきまで死線を彷徨っていた枚方の街が見えた。
「北東に進めば、滋賀や」
学が北東の方角を指さす。そこには小規模ながら田んぼが広がっており、その上を高速道路の高架が足を生やすように突き抜けていた。
信太が大きく伸びをする。「やっとやな……」
「うん……」
ふみとまさるが登ってきて、二人に水を渡した。ふみは無言のまま、自分たちが通ってきた枚方市の方角をじっと見つめている。タワーの窓を開けると、心地よい涼しい風が吹き込んできた。ゆっくりと、穏やかな時間が流れる。
「おい、あれ……」
突然、ふみが立ち上がり、双眼鏡を覗き込んだ。学がふみに近づく。「どうした?」
「昨日の神社の方……バイクに乗った奴らがいる」
学も双眼鏡を構えた。昨日の神社の周辺を、バイクに乗った若い男たちが周囲を警戒しながら走っている。ふみが真剣な表情で倍率を合わせた。
「昨日の奴らだ。間違いない」
「ほんまや……」
学は一目散にタワーを駆け下り、橋へと走った。放置された廃車の上に登ると、左手で口をハンカチで押さえ、右手で拳銃をきつく構える。
──パーン!
空に向けて一発、銃声を轟かせた。車内ではゾンビの死体が枯れていた。橋の向こうにいた男たちは銃声に驚き、バイクを急反転させて枚方市の方へと逃げ去っていった。
「全員、陣形を取り直せ。出発や」
左手に宇治川を見ながら歩を進める。高速道路の下をくぐり、小さな集落を抜けると、辺り一面に青々とした田んぼが広がった。稲はまだ実をつけていないものの、膝ほどの高さまで育ち、風に揺れるたびにスズメが群れをなして飛び立っていく。
後ろを歩くふみが学の背中を見ると、彼は相変わらず、何かに抗うように前方を睨みつける顔をしていた。
広大な田んぼの中に、ポツポツと集落がある。宇治川沿いにポツンと取り残された、寂れた駐車場で昼飯にすることにした。中くらいの鍋に、これでもかとパスタと水を突っ込んで手荒に茹でる。周囲が開けているため、数豊一人の見張りで十分だった。
案の定、パスタは湯量が足りずに束になって固まってしまった。それをフォークで餅のように突き刺し、塩をふりかけて貪る。
いつものように、年長組が固まって話し合い始めた。学がマップを指さす。
「北上して、京都の付け根にある山科に着いたら、車を見つけて山を越える。そしたら滋賀や」
「よしわかった。秋、塩とって」信太は固まったパスタを一本一本裂きながら食べている。
ふと、ふみが下を向いたまま、静かに口を開いた。
「……僕とまさるは、このグループを抜けようと思ってます」
秋が困惑の表情を浮かべたが、信太は何食わぬ顔でパスタを口に運び、学は静かに鍋を見つめていた。
秋が目を丸くする。「え……何で?」
ふみは学を真っ直ぐに見据えて言った。
「滋賀に行くって言っても、山科と大津市を抜けなきゃいけない。大阪ほどじゃないにしても、それなりの都市部だ。そんな危険を冒さなくたって、ここにはこんなに広い田んぼがある。ここで生きていけます」
信太が学の顔を横目で見る。学は猫背のまま、遠くの景色に目を細めて言った。
「山科も大津も、比較的田舎だから道路は生きてるはずや。車に乗ればゾンビには襲われへん。……重要なのは、その先のことや。いつかは都市部の食料が尽きる。こんな京都の南にある、ちょっとした稲作地帯なんて、真っ先に他の生存者に狙われる。だから俺は、もっと奥の、滋賀の高島市に行こうと思ってる」
ふみが箸を学に向け、反論する。
「そんな先のこと言われても、現実味が無いんだよ。だいたい、今この京阪神にどれだけの生存者が残っているかも分かってないのに」
「分からないから、最悪を想定して対策してる。」
ふみはマップの高島市を指さした。
「滋賀にだって人がいるはずです。その人たちが、僕たちに食料を分けてくれると思いますか?」
学は頭をボリボリとかいた。
「ふみの言ってることは正しい。ただ、俺の言ってることも正しい。だから、田舎の方が食料が余っている可能性に賭けて、俺は行く」
信太が言葉を添える。「米の収穫まであと1ヶ月ちょっとある。移動するなら今がベストタイミングやねん」
「それはそうですけど……」
ふみが言葉を詰まらせると、学の険しかった表情が少しだけ緩んだ。
「抜けるなら拒まへんよ。拳銃も、元々ふみが持ってた1丁は返す。……そこが怖かったから、ずっと俺の顔色を伺ってたんやろ?」
「……」ふみは図星を突かれ、離れた場所で遊ぶまさるに目をやった。
秋は黙って片付けを始める。
昼飯を終え、陣形を立て直して、陽の照りつける宇治川の堤防を歩いた。宇治川は淀川に比べればずっと川幅が狭い。
やがて、宇治川を渡って京都の市街地へと続く大きな橋に差し掛かったところで、まさるとふみが足を止めた。学も歩みを止める。ふみがみんなに向き直った。
「僕とまさるはここで別れます。みんな、ありがとうございました」
二人は深くお辞儀をした。学と信太が歩み寄る。学が水の入ったペットボトルを手渡した。
「道は違うけど……これからも、しっかり生きてな。もし高島市に来ることがあれば、俺らを頼れよ」
「あぁ。ありがとう」
ふみは笑っていたが、その瞳が一瞬、潤んだのを学は見逃さなかった。信太がまさるに拳銃を手渡す。
「使うときは、ちゃんと考えるんやで。もしまたどこかで会っても、俺のことは撃つなよ?」
数豊とみなとが、手持ちのおもちゃをまさるに手渡すと、まさるは嬉しそうに笑った。
二人が橋を渡り終えるまで、みんなで何度も手を振った。ななは寂しそうに秋の手をギュッと握り、秋はななの頭を優しく撫で続けていた。二人の背中が見えなくなるまで、全員がその場に立ち尽くしていた。
信太が遠くの山を指さす。「あの山を越えれば滋賀や。みんな、行くぞー!」
堤防の道は進むにつれ、ゆっくりと細くなっていった。所々に生い茂る木々が、心地よい天然の屋根を作ってくれている。堤防から見下ろす街並みは、どこか懐かしさと古さを感じさせる家々が並んでいた。
ある橋を渡ってしばらく反対側の堤防を進むと、こじんまりとした旅館が見えてきた。紅葉のような深い赤色をした、瓦屋根の古風な趣の建物だ。左手を線路、右手を川に挟まれ、まるで町から隔離されたような静かな場所にぽつんと建っていた。
学が秋に近づく。「今日はここに泊まるで」
その時の学の顔は、いつも信太とくだらない雑談をしている時の、穏やかな顔に戻っていた。人数が増えて以来、ずっと何かを睨みつけるような張り詰めた顔ばかり見ていた秋は、そのギャップが少しおかしくて、一人で密かに微笑んだ。
信太が走ってくる。「ここ、人おらんの?」
「ホームページで確認した。緊急事態宣言でずっと閉鎖されてるはずや」
夕日が旅館のガラス窓を紅色に染めていく。裏口のドアを割って中に入り、内側から椅子や机を積み上げて完全にバリケードを築いた。
廊下の奥から信太の興奮した声が響く。
「学! ここ、水も電気も生きてるぞ!」
学はホッと胸をなでおろした。
「ここ、田舎に近いからな……スマホの充電、ヤバかったわ」
そして、何かを思い出したように天井を見上げた。「そうや、信太。ここ、天然温泉らしいねん」
二人で大浴場へと走る。湯垢のついた古い栓を開くと、「ブファーッ!」と勢いよく音を立て、モクモクと白い湯気を上げて熱いお湯が噴き出してきた。
浴場は中庭に面しており、見上げると夕焼けに染まった雲が、ゆっくりと風に流されていくのが見える。
「一番風呂もらおうぜ」学が言うと、信太が人差し指をチッチッと振った。
「女の子たちに一番風呂を譲ったれよ。俺らは汚れてるやろ?」
(汚れてる……俺ら……汚れてる……)
その言葉に、学の胸がズキリと痛んだ。一瞬、嫌な顔をして黙り込んだが、すぐに気を取ってみんなを集めに戻った。
一番大きな和室に全員を集めた。窓が奥まで続いており、眼下に宇治川の緩やかな流れが一望できる。8人全員が川の字になって寝ても、まだ有り余るほどの広さだった。
机の上にはお茶のティーバッグが残されており、久しぶりに淹れたての温かいお緑茶を味わうことができた。
学が指示を出す。「先に女子たちは風呂に入ってきて。上がったら飯の用意を頼む。外に光が漏れへんように、カーテンはきっちり閉めて、廊下の明かりだけを使ってな」
信太がすかさず笑ってて見せる。
「今日は濡れタオルで体を拭くだけじゃありません! 温泉やで! 今日はみんな、ゆっくり休むんや!」
その言葉に、子供たちの表情がパッと温かくなった。
女子たちが温泉に浸かっている間、学はガムテープを使って窓のカーテンの隙間を念入りに塞いでいた。信太は隣で武器の手入れをしている。
「おい、学。リボルバーの弾、4発だけのはずなんやけど、5発も残ってる」
「ふみのリボルバーとすり替えた」
学は淡々と答えた。
「じゃあ、まさるに渡したやつは4発しか入ってないん?」
「こっちは8人も抱えてるんや。弾の一発くらいちょろまかさな、やってられん」
学が少し悪戯っぽく笑う。信太はその顔を見て、しみじみと言った。
「学、お前が笑ってくれてよかったわ」
「何やねん急に」
「人数が増えてから、お前、めちゃくちゃ目つき怖かったぞ」
学は動きを止め、うつむいた。
「10人も見切れん。……8人だって……。ところでさ、前からずっと思ってたんやけど」学は自嘲気味に苦笑する。「俺たち、20歳以上の生存者に、一度も会ったことないよな?」
信太の動きも止まった。
「……やっぱり、そう思ってた?」
「そういうウイルスなんかな」
「そうなんやろな。知らんけど」
信太は小さくえくぼを作って笑った。
「上がったよ、お二人さん」
背後から秋の声がした。二人が振り向くと、そこには浴衣を着た秋が立っていた。髪がほのかに濡れてしっとりと光を反射し、それを白いタオルで拭っている。
二人はドギマギしながら着替えをひったくるように持って廊下へ出た。すれ違いざま、秋の白い首筋が妙に目に焼き付いた。
階段を下りる時、信太が学と目を合わせて
「ウヒウヒ」と下品に笑う。学もつられて口角を上げた。
男たち4人で温泉に浸かる。学は頭の上に丸めたタオルを載せ、湯船に深く浸かりながら口を開いた。
「明日は山科に入って、中くらいのバスを見つけよう。みなとにも色々と手伝って欲しい」
「うん」みなとが元気に頷く。
見上げると、遮るもののない夜空に満天の星々が輝いていた。信太が頭を露天風呂の岩にもたれかけさせる。
「都会のすぐ近くやのに、こんなに星が見えるんやな……」
食後は年長組が集まって作戦会議を開いた。少し離れた場所では、女の子3人が嬉しそうに本を読んだり、あやとりをしたりしている。今日からは、数豊も会議のメンバーに加わった。
秋が学の顔色をうかがいながら、おずおずと口を開く。
「ねぇ、明日もここに泊まらない? 服を全部洗濯したいんだよね」
学は珍しくあっさりと答えた。
「いいよ。どっちにしろ車を探さんとあかんからな。俺らの服も頼むわ」
「了解!」秋が嬉しそうに笑う。
数豊が真剣な目で尋ねた。
「明日は誰が外に行くん?」
「信太と俺で探しに行く。数豊、ここでみんなを守ってくれ。誰も外に出すなよ。任せる」
「わかった」数豊が力強く頷いた。
夜、静まり返った和室を、窓越しに月光が静かに照らしていた。
みんなが穏やかな寝息を立てて寝静まる中、学だけは部屋の端で、暗闇に向けてじっと大きな目を開いたままだった。




