4話(淀川)
4話(淀川)
翌朝、方位磁針を右手に握り締め、学校を出発した。三月は調理用の鍋をヘルメット代わりにすっぽりと頭に被っている。学と信太は小ぶりの荷物だけを背負い、いつでも武器を抜ける体制をとった。
「小走り。索敵警戒」
学が定期的に指示を出す。やがて、『寝屋川市』と書かれた青い道路標識が見えてきた。
「右の事故車に遺体ある。息を止めろ」
障害物を避けながら、2日間をかけて寝屋川市を縦断した。食糧管理を任された信太が報告する。
「あと2日で、備蓄の補給が必要やな」
「枚方市に入ったら、次の拠点になる学校を探そう」
夜は、周囲を柵や塀で囲まれた寺や保育園を見つけて潜り込んだ。中央に置いた懐中電灯を布で遮光し、小さな明かりを囲んで語り合う。過酷な移動の中、お互いの好きなものや楽しかった記憶を話し合うのが、唯一の救いだった。
「三月が一番好きな食べ物は?」
「ケーキ!」
信太が続く。「俺はステーキやな」
「甘いものが恋しいですね……」数豊が小声で呟く。
学はマップを確認しながらも、時折耳を傾けて相槌を打った。
「三月は、何ケーキが好きなん?」
「ストロベリーショートケーキ!」
「分かるわー。いちごの酸味が、スポンジの甘さを引き立てるんよな」
信太の絶妙な相槌に、場が和む。外では、ゾンビが敷地の柵から飢えた手を伸ばしてガタガタと音を立てていた。
「僕はモンブランが好きです」
「えー! 数豊くん、モンブラン好きなん!?」
「……うん」
「なんか苦手やわー」
「それは三月さんが、まだガキやから」数豊が不敵に笑う。
「1年しか年変わらんし!」
その微笑ましい言い合いを見ながら、学はそっと口元を緩めていた。
陽が昇ると同時に出発する。まだ完全に都市部は抜け切れていないが、移動中に4人でしりとりができるくらいには、余裕も生まれていた。
ちょうど守口市と枚方市の境界に差し掛かった頃、一軒の洋菓子店の前を通りかかった。
「砂糖くらいなら残ってるやろ。ちょっと行ってき」
学の言葉に、数豊と三月が店内に偵察を兼ねて入っていく。信太と学は外で見張りだ。ガラス越しに、2人が見つけた砂糖を指ですくって舐めている無邪気な姿が見えた。
「学、ありがとうな」信太が照れくさそうに鼻をかいた。
「信太が来てくれたからやで。こっちも感謝してる」
突如、信太がさすまたを鋭く構えた。前方の路地から、ゾンビが1体、ゆっくりと近づいてくる。
学が店内に向かって叫んだ。「2人とも、出るぞ!」
信太がゾンビの側面に回り込む。「俺が足を払う!」
「分かった!」
信太がゾンビの足元を狙ってさすまたを突き出す。バランスを崩したゾンビの痩せこけた身体が、だるま落としのように前のめりに倒れ込んだ。
「今や!」
学がすかさず右足の腱を包丁で切り裂く。
「数、早く!」
飛び出してきた数豊がさすまたで首を押さえつけ、学がその喉元を掻き切って完全に沈黙させた。
三月がリュックから素早くハンカチと除菌用アルコールを取り出す。「はい、学」
「ありがとう、三月。……こいつ、だいぶ痩せてるな、信太」
「あぁ。このままさっさとくたばっていってくれたら、いつかは……」
信太はどこか遠い目をしながら、濁った空を見上げていた。
極力戦闘を避け、次なる目的地である学校を目指して歩を進める。昼食を終え、再び民家が立ち並ぶエリアへと差し掛かった。
「ん? ……学! 右前の路地、今、人が通った!」信太が鋭く指摘する。
「追うぞ」
路地を駆け抜けると、目の前を線路が横切っていた。
「線路の奥に、何か走っていった!」
目を凝らすと、線路の向こう側の道端で、一人の小さな女の子が電柱の陰に隠れようと身を潜めているのが見えた。
数豊が線路の柵を素早くよじ登り、声をかける。
「大丈夫!?」
その瞬間だった。
反対側の角から、若い女性が悲鳴を上げながら走ってきた。その後ろから、2人の若い男たちがじりじりと距離を詰めている。片方の男は、小学4年生ほどの男の子の腕を乱暴に掴んでいた。
電柱の陰の少女に気づいた女性が叫ぶ。
「遥ちゃん、逃げて!」
信太が女性に駆け寄り、声をかけた。
「何があったんですか!?」
学は直感的に、背後の数豊と三月を引き戻す。
「数、防御体制! 三月、後ろを警戒しろ!」
女性は激しく動揺しながら信太に縋りついた。
「仲間……じゃないの?」
「仲間? どういうこと?」
女性がさらに信太の腕を掴む。「助けて……!」
学は包丁の柄を強く握り締め、叫んだ。
「信太、その女から離れろ!」
男たちが完全に距離を詰めてくる。
「学、何言ってんねん!?」
「そいつも敵のグルかもしれんやろ、信太!」
移動していないにもかかわらず、学の呼吸が激しく乱れ始める。
「そんなこと言ってる場合かよ!」信太が言い返す。
男たちの一人が、距離を保ったまま大声で脅してきた。
「その女をこっちによこせ! このガキがどうなってもいいんか!?」
男は持っていたナイフの刃先を、人質の男の子の首元に突き立てた。もう一人の男は、大きな出刃包丁を不気味に構えている。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
学の息がさらに荒くなる。学は目の前の女性を鋭く睨みつけた。
信太が怒鳴る。「学、焦るな!」
「学!」数豊もさすまたを握り直し、一歩前へ出る。
男たちが一歩、また一歩とゆっくり近づいてくる。学は全身に血が上り、熱くなっていくのを感じた。深く、一度だけ呼吸を吸い込む。
「……動くな」
腰の後ろに手を回し、隠し持っていた拳銃をゆっくりと引き抜いた。銃口を男たちに向ける。
男たちの表情が一瞬で凍りつき、足を止めた。
「動いたら、撃つ」
「――カチャ」
撃鉄を起こす金属音が、静まり返った線路沿いに冷たく響いた。
男たちは互いに顔を見合わせ、引きつった笑みを浮かべた。
「……その男の子を、こっちに歩かせろ」学が冷徹に命じる。
「……ゆっくりやぞ」
掴まれていた男の子が、怯えながらも一歩ずつこちらへ歩いてくる。
「ナイフと包丁を地面に置け」
言われるがまま、出刃包丁とナイフがアスファルトにカランと音を立てて転がった。
「お前ら、そのままゆっくり後退しろ」
男たちは腰を低く曲げ、両手を挙げたまま、じりじりと後ろへ下がっていく。
「反対を向け」
男たちの背中がこちらを向いた瞬間、学が冷たく告げた。
「今からお前たちの足を撃つ。当たりたくなかったら、全力で走れ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、男たちは脱兎のごとく一目散に走り去っていった。
男たちが豆粒のようになるまで、学は拳銃を構えたまま微動だにしなかった。
「学、もう終わった。大丈夫や」
信太がそっと肩を叩く。だが、学の呼吸は依然として荒く、瞳孔は完全に開ききったままだった。
その異様な様子を察した信太が、周囲に明るく声をかけた。
「皆!とりあえず、近くの学校に行こう!」
枚方市内のとある中学校へと向かう。
道中、助けた女性が信太にそっと耳打ちした。
「あの人……いつも、あんな感じなんですか?」
彼女が指さした先には、まだ目を限界まで見開いたまま歩いている学の姿があった。
「いや、いつもはもっと冷静なんやけどな。……ちょっと、疲れてたんかも知れん」
中学校の保健室に入り、学は冷水で何度も顔を洗った。ようやく、肺の奥まで深い呼吸が届くようになる。
「信太、ごめん」
「大丈夫やって。『頼れ』って言うたやろ? ほら、数豊が防災倉庫開けて、また飯の用意してくれてるで」
信太はいつも通りの優しい微笑みを浮かべた。
「……そうか」学は少し気まずそうに視線を落とした。
校長室のソファに全員で腰掛ける。数豊と助け出した女性が、炊き立ての大きな鍋を机の真ん中に置いた。三月が備蓄倉庫から持ってきた小箱を差し出す。
「開けるでー!」
信太が鍋の蓋を勢いよく開けると、ふっくらと炊き上がった白米が、夕暮れの光を浴びて美しく輝いた。
「ほら、みんな。これもあったよ!」
三月が持ってきたのは、保存食用の羊羹だった。
「久しぶりの甘いものですね」数豊が、男の子に優しく手渡す。学はその光景を、少し呆然と眺めていた。
女性が手際よく白米を器によそっていく。学は部屋の隅から大きな校長椅子を引きずってきて、全員で机を囲んだ。
「いただきまーす!」
温かい白米を口に運び、ようやく人心地がついたところで、学が切り出した。
「……名前と年齢は?」
女性がゴクリと水を飲み、学の目をまっすぐ見つめた。
「私は秋です。大学1年生の18歳」
よく見ると、彼女の目尻は少し赤く腫れていた。黒く光沢のある長い髪が印象的な、綺麗な女性だった。
「遥です。9歳です」
隣の少女が小さな声で答える。耳には補聴器がついていた。
「……みなと。11歳」
男の子はポツリと名前だけを呟いた。日焼けで真っ黒になった顔が印象的だった。
4人の自己紹介を済ませ、学は本題に入る。
「なんであの男たちに追われてたんだ?」
秋が再び口を開く。
「3人で隠れて行動してたんだけど、突然見つかっちゃって。あの人たちが急に追いかけてきたから、怖くなって……。『止まって』って言っても全然聞いてくれなくて……」
「そうか」
「……ねぇ、ここに2週間くらいは落ち着けるよね?」
秋が、立派な校長椅子に座る学の顔を覗き込むように言った。
「いや、それはない」学は即座に否定した。「もしあいつらがもっと大きな組織の末端だったら? 俺たちの後をつけてきていたら?」
学は小さくため息をつき、言葉を続ける。
「どのみち、俺たちは滋賀に行く。1日でも早く着くに越したことないし……」
「滋賀って……ここからじゃ相当遠くない?」秋が眉をひそめる。
信太が明るい声を差し込んだ。
「今から行けば、稲刈りの時期に十分間に合うって!」
秋がコップを机に置く。「私が言いたいのは――」
「田舎に近づくにつれて、放置された車も使えるようになる。それまでは何とか頑張ろう」
学が秋の言葉を遮るように決断を下す。数豊や遥は、そのやり取りをじっと黙って聞いていた。
信太が隣にいた遥の目線に合わせ、おどけたように微笑む。
「まぁ、人が増えたからさ! ゾンビに襲われてもへっちゃらやで。俺ら、もう3体も倒してるんやからな!」
その言葉に、三月と数豊が少し誇らしげに胸を張った。
学も信太のトーンに合わせる。「……俺は5体な」
信太がすかさず中央に手を伸ばした。「こういう時は、こう!」
数豊、三月、そして学が次々に手を重ねていく。
「みんなで滋賀に行くぞ!」
「おー!」
「ねぇ、デザートに羊羹食べません?」数豊が提案する。
「さっきの砂糖もあるよ!」
その夜、集めた食料を全員のリュックに均等に分配し、明日の大移動の準備を整えた。学は信太、数豊、そして秋の3人を別室に集めた。
「今日の夜から、順番で見張りをする。疲れてると思うけど、いけるか?」
学が秋に尋ねる。秋は力強く頷いた。「うん。年長者が働かなあかんもんな」
翌朝、持ち物の最終点検を終えて学校を出発した。
「学、これ方角合ってるか?」
「ちょっと右に曲がってるな。助かる、信太」
数分ほど歩くと、視界の先に黄緑色に染まった大きな丘が見えてきた。
「これって……」信太が学の肩を叩く。
「うん。淀川の堤防」
堤防の階段を登り切ると、枚方の街並みが足元に一気に広がった。小高い丘の周囲では、背の低い野草が心地よい川風に揺れている。舗装された一本道が、遥か奥へと真っ直ぐに伸びていた。
「ひろーい!」三月が歓声を上げる。「学、あそこ見て! 小さな畑がある!」
無機質な街の中にも、ようやくポツポツと小さな田畑が姿を現し始めていた。
「何人かは堤防の上で見張りに残って、残りは畑に降りよう」
放置された畑には、ナスビやトマトの株が立派に実を結んでいた。
「ネギ見つけたー!」
堤防の上から、学が下に向かって叫ぶ。「信太! 種にする用のやつも、ちゃんと取っといてや!」
握り飯を片手に、一行は再び歩き出す。信太が学に真っ赤なトマトを手渡した。
「今日はどこに泊まる予定?」
「近くの保育園か、頑丈な建物にしようと思ってる」学はトマトにかじりついた。
「全員、警戒を怠るなよ」
「けいかーい!」信太が復唱する。
「もうすぐ大きな病院の横を通過する。堤防の上を走っていけば大丈夫だと思うけどな」
病院を遠巻きに横目で見て進む。外付けの避難階段の柵に、一体のゾンビがぐったりと引っかかっていた。まるで、ベランダに干された布団のようだった。
道中、何度か野良ゾンビと出くわしたが、さすまたで距離を取って対処すれば何の問題もなかった。
左手には雄大な淀川が流れ、右手には巨大なマンション群が、学たちを遠くから見下ろすようにそびえ立っている。
かつては霞んで見えていたはずの遠くの山々が、緑色に染まって見えた。
4人は人気のない建物を品定めしながら歩く。
「みんな、シャッターが完全に閉まってる家を探すんやで」
「信太、あれ閉まってる!」
「学、3時の方向!」
信太と学の二人が、物資調達のためにその民家へ向かう。一歩街の中へ足を踏み入れると、見晴らしの良い堤防とは空気が一変した。常に誰かの視線に晒されているような、薄暗い恐怖が付きまとう。
バールを使い、シャッターの隙間をこじ開けて侵入した。
「信太は二階を頼む」
信太のバールと学の包丁をカチンと鳴らし、互いの無事を祈る。
学が台所の床下収納を漁っている時だった。
「――バタン!」
「うわあああ!」
二階から信太の悲鳴が響いた。学は心臓を跳ね上げ、階段を猛烈な勢いで駆け上がった。
「信太!?」
二階の薄暗い通路で、信太が腰を抜かしてへたり込んでいた。開いたドアの奥、ベッドの上には、干からびて黒ずんだ老人の死体が横たわっていた。
「……この部屋には入らんとこ」
「シャッターが閉まってても、おる時はおるんやな……」
学は味噌漬けの小さな壺と缶詰を、信太は乾燥パスタと米をリュックに詰め、足早に堤防へと戻った。
淀川の土手にある大きな木陰で、遅めの調理を始める。
ふと見ると、数豊が新入りのみなとと木の枝を拾って、楽しそうにチャンバラごっこをしていた。遥と三月、そして秋の3人は、仲良くおにぎりを握っている。
(数豊にも、あんな子供らしい一面があったんだな……)
「ほんまは、ああやって笑って過ごすのが普通なんよな、学」
信太が隣で呟いた。
「……そうやな」
学は眉をひそめ、サッと視線を逸らした。
真っ昼間の太陽の下、学と信太は堤防の頂上に登り、望遠鏡を交互に覗きながら監視していた。
遠くの路上を、いくつかの影が不規則に徘徊しているのが見える。
「信太、やっぱり人が多すぎる。1日の食料を集めるだけで手一杯で、進むペースが落ちてる」
信太が望遠鏡を受け取りながら返す。「でも、靴擦れして足痛めてる子もおるしな……」
学はもどかしそうに頭を掻いた。
「大丈夫やって、学。稲刈りまでまだ1ヶ月以上あるんやから」
「……」
「でも、食料の備蓄は問題やと思うな」
優しい、しかし芯のある声が聞こえた。振り向くと、秋がおにぎりをお盆に乗せて登ってきていた。
「ちょっとは休みや、お二人さん」
秋が学におにぎりを手渡す。学は、秋が次に信太へ手渡す様子を、何気なく横目で盗み見ていた。
「今日はここらで泊まろう。進むのはここまで」
秋が提案し、悪戯っぽく笑った。
堤防のすぐ脇に、一軒の小学校を見つけた。安全のため、一旦みんなを堤防の斜面に隠れさせる。
信太と学の二人が、先行して学校の校門を静かによじ登った。
夕暮れに照らされた校庭の地面を、何かの影がサッと横切る。二階の教室の窓から、彼らをじっと見下ろす不気味な視線があったが、二人はまだその存在に気づいていなかった。
「学、一階の職員室、中空っぽやぞ!」
「よし、二階へ行こう」
二階へと続く階段を登り、教室のドアを開けようとした、まさにその瞬間だった。
「――カチャ」
「――カチャ」
聞き覚えのある、冷たい金属音が二人の背後で響いた。
学と信太の動きが、完全に凍りついた。




