39話(パンデミックの影)
39話(パンデミックの影)
新政権に変わった外務省の広々とした執務室に大地が座っている。
「数豊、中国との国交の件、進捗はどう?」
数豊はここ数年ですっかり背が伸び、仕立ての良いスーツがよく似合う青年へと成長していた。
「順調やで」
数豊が、大地の机の上に置かれた見慣れない資料に目を留め、手に取った。
「……サハリンの人口推移? 大地、今はこんなデータを調べてるん?」
「ああ。サハリンの住民や、ニューギニアの先住民……彼らはなぜか、あのパンデミックの影響を受けていなかった。それがずっと引っかかっててさ。学に知恵を借りてる」
「学は官僚になってくれたん?」
大地は小さく息を吐き、答えた。
「官僚にはなってないけど、学に助けられてる。
あのパンデミックが、本当はどうやって引き起こされたのか――その輪郭が、少しずつ見えてきた」
「パンデミック当時の状況を整理した。……まず最初に、新型のインフルエンザウイルスが世界中で爆発的に流行した。ここまでは、僕たちの知っている歴史通りだよな?」
「うん。それが世界を滅ぼした病原体だろ?」
「その次に、WHO(世界保健機関)がわずか一週間で地球上の全人類にワクチンを接種させる『世界一週間計画』を強行した」
大地が数豊に視線を向ける。
「ここからが学の考えや。その計画が発動された時点で、新型インフルエンザによる世界全体の死者は10万人程度だった。いくら感染力が強くても、それだけで全世界に広がるとは考えにくい。学いわく、パンデミックの真の引き金は、あの新型ウイルスではない可能性があるんやって」
数豊が息を呑む。
「じゃあ、何が原因なん」
「学は、『世界一週間計画』で、世界中に一斉に投与された、あのワクチンそのものが原因なんじゃないかって言ってる」
「それって……誰かが意図的に仕組んだってことか? それとも、ただの医療事故なのか……?」
「この地図を見てくれ」
大地がデスクに一枚の古い地図を広げた。
「これは、当時のロシア国内における『世界一週間計画』の強制接種エリアや。見てみろ、サハリンや世界の島々が綺麗に対象範囲外になっている」
「サハリンの住民は、あのワクチンを打っていなかったのか……!」
「ああ。ワクチンが理由なら、隔離状態にあったニューギニアの先住民が生き残っていたことの辻褄も合う」
数豊は目をごろりと丸くした。
「でも、待てよ。僕らだって当時、日本でワクチンを打ったはずだ。なのに、なぜ僕らは化け物にならずに生き残っているんだ?」
「そこが最大の謎なんや。誰かが意図して特定の人間や地域を生き残らせたのか、それとも単なる偶然か……」
数豊が唇を噛み締め、すぐに顔を上げた。
「……当時、国内で余って凍結保管されたままのワクチンが、厚労省の地下倉庫に残っているかもしれない。すぐに調べさせてみる」
夜になり、学は港からは敦賀の自宅へと帰宅するところだった。海沿いを歩くランドセルを背負う子供たちがいたが、目を向けることはできなかった。
玄関の引き戸を開けた瞬間、廊下の奥からタタタッと小さな足音が響いてくる。
「パパー!」
学は駆け寄ってきた春を愛おしそうに抱き上げ、自分のおでこを春の小さな頭に優しく擦り付けた。
「春ちゃん、ただいま。今日もいい子にしてたか?」
奥の台所から、温かい湯気とともに秋の声が届く。
「学、お疲れさま。ちょうどご飯できてるよ」
「秋、釣れた魚持って帰ってきたで。こっちおいで」
学は春を抱いたまま、近づいてきた秋をもう片方の腕で優しく引き寄せ、二人を同時に強く抱きしめた。
「秋、お疲れさま」
秋が学の手を優しく触れた。
「私は専業主婦なんやから大丈夫だよ。学こそお疲れさま」
食卓を囲む時間は、他愛のない温かい会話で満たされていた。
「学、漁師の仕事あんまり無理したらあかんで」
「うん。分かってる。いつも支えてくれてありがとうな」
数日後。数豊が、血相を変えて大地のデスクへと走ってきた。
「大地!やっぱり学の見立て通りだった!」
「厚労省に残っていた当時のサンプルを極秘裏に分析させた。……間違いない、あのワクチンの中身は、ゾンビウイルスそのものだ」
「そうか……」
予想していたとはいえ、大地の表情が険しく曇る。
「数、それが人工的に造られたウイルスかどうかを専門家に解析させて!」
「いや……、人工ウイルスの可能性が高いと思う」
大地が不思議そうに目を丸くした。
「何でそこまで言い切れるんや?」
「WHOのような組織が、世界中の人間を死滅させるほどの致命的な失態を、単なる事故で犯すとは考えにくい。それに、一番最初に自然発生した新型ウイルスが原因ではないとすれば、あのパンデミックは最初から、極めて計画的に引き起こされたということになる」
「新型ウイルスは、世界中にゾンビウイルス入りの『汚染ワクチン』を一斉に打たせるための、単なる口実だったってことか……」
大地がやりきれない様子でうつむいた。
「犯人は人類を滅ぼしたかったんかな?」
「いや、それなら世界の全人類に漏れなく打たせるはずだし、現に汚染ワクチンを打たれた僕たちがこうして生き残っている説明がつかない。ゾンビウイルスをこれほどの規模でコントロールできる科学力があるなら、もっと確実かつ迅速に全人類を死滅させる方法を選ぶはずだ」
「じゃあ、一体何が目的でこんなことを……」
数豊が考え込んだ。
「大地、外務省の諜報リソースを使って、世界中のあらゆる周波数の電波を片っ端から傍受したら?」
「電波を? なんで?」
「もし、このパンデミックを引き起こした黒幕が今もこの地球上のどこかに潜んでいるなら、彼らは高度な科学力を維持しているはずやろ。それなら、他の荒廃した地域に比べて、圧倒的に通信量が多くなっている場所があるはず。世界の電波の『歪み』を探すんだ」
――週末、学の家族は街のおもちゃ屋を訪れていた。
「春、よく考えて選ぶんやで」
春は小さな人差し指を顎に当てながら、おもちゃの棚をじっと見つめて歩いている。
秋が、小さな男の子向けの木製のおもちゃを掲げて悪戯っぽく笑う。
「私も働こうか?」
秋の屈託のない笑顔を見るたびに、学の心の中に澱のように溜まっていた緊張の糸が、少しずつ、優しくほどけていくのを感じていた。
「秋は働かんくていい。つらいで」
二人は手を強く握りしめ合った。学は商品棚に見とれながら歩く春の手を握りながら歩いた。
レジでおもちゃを店員に預けた。
店員は学たちを睨み、少し手荒に梱包した。
「春、おもちゃ買ってもらったら、パパに何か言うことがあるんちゃう?」
秋が優しく促すと、春は満面の笑みを浮かべた。
「うん! パパ、ママ、おもちゃありがとう!」
春が嬉しそうにおもちゃの箱を大事そうに抱きしめるのを見て、学はその小さな頭を何度も優しく撫で回した。春の笑顔を見ていれば、何か……どこか……潤っているような、震えているような気がした。他の客が学たちを横目にヒソヒソと話すのを彼は気に止めなかった。
「――学、ちょっとこれ、聴いてくれ」
週が明け、学の家で大地が学に重厚なヘッドホンを手渡した。隣に数豊もいる。耳を澄ますと、ノイズの向こうから、冷徹なほど鮮明な英語の音声が聞こえてきた。
『This is ISS station. Do you copy? 』
『Loud and clear. This is C33. 』
『May your course remain true. Over. 』
横で同じ音声を聴いていた数豊が、額の汗を拭った。
「そんな……ISSって、宇宙ステーションのことやろ? まだ機能してるんか?」
学は深く考え込んだ。「何年か前にも、これに酷似した通信を傍受した記憶がある」
大地が手元のミキサーのダイヤルを激しくいじった。
「学、驚くのはこれだけじゃない。さっき受信したんやけど……」
ヘッドホンの向こうで、音声が響く。
『T-minus 10 seconds and counting... Ten, nine, eight...』
『Ignition... Liftoff! 』
『All systems are nominal.』
『Godspeed. 』
音声が途切れ、諜報室は張り詰めた静寂に包まれた。
「これ……ロケットの打ち上げ音だな」
大地がスマホをつけると、最新の衛星写真が映し出された。そこには、荒涼とした平原に不自然に広がる、超近代的な巨大施設が写っていた。
「通信元を逆探知して突き止めた。モンゴルの大平原の真ん中にある、地図に載っていない謎の施設だ。学、どう思う?」
「モンゴルはパンデミック前からも人口密度が低いエリアだ。ロシアも中国も、今の暫定政府は国内の統一だけで手一杯のはず。そこに、これほどの規模の施設があるということは……」
「僕たちの知らない、全く別の勢力だ」
数豊が腕を組む。学はまっすぐに画面を見つめた。
「直接行って確かめるしかないか」
大地が画面をスクロールした。
「……よし分かった。船を用意する。知恵も借りると思う。だから学も来てほしい」
学がおびえたような顔をする。
「船って?何の船で行くんや」
「自衛隊の船ではいかんよ。世界を滅ぼした黒幕がいるとすれば、もうあの施設の連中以外には考えられない。戦艦で行くのは危なすぎるやん?」
数豊が学の肩を軽く叩く。
「大和はもう、自由信党が政権を再び握ってから官僚を辞めさせてるから……」
その夜、学は敦賀の自宅のキッチンで、夕食の支度をする秋の体を後ろから静かに抱きしめた。
「秋……近いうちに、モンゴルへ行くことになった」
秋は一瞬だけ手を止め、それから優しく言った。
「……新しい国と、国交を結ぶためのお仕事なんだよね?」
「ああ。建前はな。でも、向こうでどうなるかは、まだ分からん」
「危ないところなの?」
「危ないかどうかすら、まだ分からん」
学は、秋の細い体を抱きしめる両腕の力を少しだけ強めた。
「……俺、ちょっとだけ、怖い」
秋は学の大きな手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
「大丈夫。学なら、絶対に大丈夫やで」
「秋……愛してる」
「うん、私も愛してる。だから、ちゃんと帰ってきてね」




