最終話(Pサピエンス)
最終話(Pサピエンス)
出発の朝、学は秋の唇に静かにキスを交わし、春と一緒に両腕で強く抱きしめた。
「春、秋、愛してるよ」
小さな春の手が、自分の背中を一生懸命にぎゅっと抱きしめ返してくれている。学は静かに、しかし固く拳を握りしめた。
「学、気をつけてな」
「うん、行ってくる」
家から港へと行く道である『黒い車』とすれ違った。街でもあるまいし、こんな廃れた道を行く車が何なのかを学は痛いほど理解できた。
特使船は、敦賀湾の穏やかな水面を滑るように出発した。復興の槌音を響かせる敦賀の街並みと、建設途中の建物群が、ゆっくりと遠ざかりながら彼らを見送っていた。
船は中国の大陸を経由し、そこから陸路でモンゴルへと向かった。
ある夜は、中国の小さな農村の民家に温かく泊めてもらった。見上げる夜空の星々は、日本よりもはるかに息を呑むほど美しく、また近くに見えた。
大地と数豊、そして学の三人は、満天の星空の下で静かに焚き火を囲んだ。
数豊は、揺らめく炎をただじっと見つめている。大地が、いつもの馴染み深い優しい笑顔を浮かべて学の肩を叩いた。
「モンゴルの施設には、事前に連絡を入れてある。交渉の席には着いてくれるはずだから、大丈夫だよ」
幾つもの峻険な山を越え、深い川を渡るうちに、窓の外には遮るもののない広大な草原が広がり始めた。
モンゴルの夜は、肌を刺すように冷たかった。
地平線以外に何も存在しない殺風景な大平原の真ん中に、突如としてその白い巨躯が現れた。奥には、ロケットの格納庫と思われる、天を衝くほど太く高い建造物がそびえ立っている。
日本の外務省一団は、世界の果てにポツンと佇むその超近代的な施設を、言葉を失ったままただ見上げるしかなかった。
出迎えたのは人間ではなく、無機質な自律型ロボットだった。彼らに案内され、金属質の冷たい通路を進む。
「日本国外務省の皆様、ここでお待ちください」
合成された電子音が、家具一つ置かれていない殺風景な白い部屋に虚しく響いた。
しばらくの静寂の後、重い扉が開き、一人の「ヒト」が入ってきた。
その姿は異様だった。肉体は明らかに人間のものであったが、頭部がひときわ大きく肥大化しており、その頭部全体を複雑な医療機械のようなパーツが覆っている。しかし、衣服の隙間から覗く肌や骨格は、間違いなく我々と同じ人間のそれだった。
「ようこそ」
そのヒトが口を開くと、声帯からではなく、頭部の機械から滑らかな電子音が発せられた。
大地が意を決して一歩前に出る。
「私は、日本国外務大臣です」
「……」
「ヒト」はただ、感情の読めない瞳で彼らを見つめ返した。沈黙に耐えかねたように、数豊が強い口調で問いかけた。
「――あのパンデミックを引き起こしたのは、あなた方ですね?」
「いかにも、我々だ」
学は、壁際に身を寄せたまま、ただ黙ってその会話を聴いていた。
「どうしてあんな残虐なことをした……! いや、一体何が目的なんだ!」
そのヒトは、さざ波一つ立てない池のように落ち着いたトーンで答えた。
「目的はただ一つ。人類という種の『永続』である」
数豊がさらに語気を強める。
「永続だと!? 数え切れないほどの人間を化け物に変え、虐殺したことに、何の関係があるんだ!」
「ホモ・サピエンスの総数を減らしたことは、単なる過程に過ぎない。我々は、旧人類という種そのものの限界、そして彼らが作り出す社会システムの限界に、強い危機感を抱いたのだ。絶望したというよりは、ホモ・サピエンスの築く文明があまりにも脆い事実に危機感を覚えたのだよ」
「種としての、限界……?」
「そうだ。ポピュリズム、独裁、目先の利権、果てしない腐敗。そして、自らが制御できない核の脅威にまで至る、それらは数え切れない」
数豊は頭を掻きむしった。
「何を言っているんだ……」
「分かりやすく、あなた方の世界でも身近だった『少子化』を例に挙げれば、それこそが、種としての限界だと感知できる。もちろん、少子化の本質的な理由は他にも無数にある」
数豊が食い下がる。「他の理由とは何だ」
「当然のことながら、システムとしての限界もある。しかし、まさに、今のあなたのように『ほとんどの民衆がその本質を理解していない、いや、理解できない』これこそが限界だ。このように、ホモ・サピエンスは常に『やってみなくてはどうなるか分からない』まま暴走を続け、気づいた時には取り返しのつかない状況に陥っている。少子化の本質が、まさにそれだ」
学は何も言えず、下を向いている。
数豊はそんな学を横目にそのヒトを睨みつける。
「だからといって、数十億人を殺害する大量殺戮が許されるわけがないだろう!」
「もちろん、我々の心も痛まないわけではない。
しかし、正義も倫理も、時代や立場によって都合よく変わる。共同体を円滑に統べるための道具に、我々の未来が操られるのは陳腐だ」
大地が苦々しく眉をひそめた。
「結局……何のために彼らを殺したんだ」
「我々は、ホモ・サピエンス、すなわちホモ属から人為的な進化を遂げる。
Permanent(永続的な)サピエンスへと。
問うが、旧人類が、我々を隣人として信用できるとだろうか? 同じ地球という限られた揺り籠に住み続ける限り、遅かれ早かれ、パイの奪い合いによる滅亡の戦争は避けられない。旧人類の自然な遺伝子を汚染させない必要もある」
その新人類は、奥にある巨大なロケット格納庫の方へと視線を向けた。
「だから、私たちはこの地球を去り、火星に新たな故郷を創る。全く新しい合理的な経済システムを持ち、種としての階梯を登った
『Pサピエンス』の楽園を……。
旧人類が自発的に進化するのを待っていては、その前に自ら滅びの道を選んでしまう不安がある。我々は、それをただ座して待てないほどの危機感を覚えたのだ。
それだけではない。旧人類の倫理は、人為的な遺伝子進化を容認しない。だからこそ、一度旧人類の文明の力を物理的に叩いて止め、我々への反発の芽を摘んだ上で、火星への移住を進める必要があった。……あのパンデミックは、そのための『数減らし』であり、時間稼ぎだった。だから、ゾンビウイルスをばらまいて旧人類に争い合いを強要し、停滞させた。
人類という生命種の存続可能性を極限まで高めるためには、旧人類の泥濘の道とは別に、我々新人類の道という二つの選択肢を作っておくことが必然だ」
外務省の一団に、凄まじい動揺と沈黙が走った。
「そんな……そんな勝手な理由のために、世界を滅ぼしたというのか……」
「許されることじゃない……絶対に、間違っている!」
「私たちがワクチンを打っても感染しなかったのは、旧人類が完全に絶滅することを回避するためだったのか……」
「僕たちは生かされていた……」
その時、大地は怒りよりも先に、激しい切なさと共に学のことで胸がいっぱいになった。
大地の脳裏に、あの日、激しい雨の中で行われた記者会見で、台の上から絞り出された学の悲痛な叫びが、鮮烈に蘇っていた。
『人類はまだ民主主義なんかできるレベルじゃない。腐敗し、権益にへばりつき、明日のことしか考えられない。自分たちが作った経済システムすらコントロールできず、気づいたときには手がつけられなくなって衰退するしかなくなってしまう。それが人類の限界だ。だから少子化も止められへんねん……』
そのP・サピエンスは、淡々と話を締めくくった。
「我々は旧人類との不毛な戦争など望まない。あなた方が、我々の創る火星の新世界に来ることを拒みはしない。ただし――新世界の運営に関わる住民としてではなく、我々の『傍観者』として席を用意するに過ぎないがな……」
その『ヒト』が手を差し出した。
「そろそろロケット発射も終盤を迎えてきた。明日が最後になる。来たければ来るがいい。
戦争も
腐敗も
後退もない、我々の楽園へ」
大地も数豊も、隣に立つ学の顔をどうしても見ることができなかった。
学がよろけながら一歩前へ出た。
ずっとうつむいていた顔をゆっくりとあげる。
学の脳裏には、『黒い車』の光景も、あんな暗いものたちもこびりついている。
ひとりでに、その新人類へと、震える手が伸びた。
だが、思い出した。
どちらも忘れることはできない。
温かいものが、ただ、胸に染みて溶けた。
―—
敦賀の港では、無事に帰国した大地と、花穗が夕暮れの潮風の中で静かに抱きしめ合っていた。
海沿いの静かな一軒家では、秋が鼻歌交じりに昼食を作り、春がリビングの床で、おもちゃを広げて遊んでいた。
「ただいま」
玄関の引き戸が静かに開いた。
いつもの温かい光が出迎えた。
屋外の電柱の側には『黒い車』がずっと停まっている。
学を抱きしめる秋の手はいつも震えていた。
ただ、その震える手を、学の手が優しく包んだ。
家の書斎。
机の上には、静かに並べられた物品がある。
法務省から届いた法廷への「呼び出し状」
(今更か、遅いな……)
居間から聞こえる春の笑い声と、秋が淹れるお茶の音。窓の外を見ると少し離れた敦賀の町並みと火星がきれいに光っている。
学はそれを見上げてひとりでに笑った。
その顔がどういう表情かなど、学にしか分からない。
これから地球や火星がどうなったのかなど、誰も知らない。
(完)
この作品はプロットに近い状況です。骨は作ったので、あとは肉付けしないといけないです。
漫画原作としての作品です。時間があれば続編を描くかもです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
追記、北陸と書いてるところは間違いで、東北が正しいです。




