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38話(平穏)

38話(平穏)

「――次のニュースです。三浦首相は、ニューギニア事件の責任を全面的に認め、先ほど内閣総辞職を表明しました」

 画面の中で、無数のフラッシュを浴びながら学がマイクに向き合っていた。

「今回の事件の全容は、すべて私一人の独断によるものです。自由信党の他の議員、職員、ならびに官僚たちには一切の非はありません」

 学が深く、静かに頭を下げると、カメラのシャッター音が会見室に激しく鳴り響いた。

 その様子を、会見室の端から秋が見つめていた。胸の前で祈るように両手を握りしめる彼女の髪は、出会った時からずっと変わらなかったあの長い黒髪ではなく、肩のあたりまで短く切り揃えられていた。


 雪が厚く積もった道路を、ゴトゴトと重低音を響かせて除雪車が走っていく。自由信党内閣の総辞職後、平等民主党が新たな政権を担うこととなった。彼らによって石油の使用制限が解除されると、街の道路には再び活気よく車が行き交うようになった。

 やがて厳しい冬が終わり、雪が溶ける頃には、さらに多くの地方地域との合流を果たした。これに伴い、「日本海連合国」はその名称を、かつての、そして新しい「日本」へと改めた。

 美しい桜が街を彩る季節になると、いたるところで近代的な工場の建設が始まった。


 それから、一年が過ぎた。


 敦賀市の穏やかな海沿いに、ひっそりと佇む一軒の家がある。

 よく晴れた日差しの下、スーツに身を包んだ二人の若い男と、一人の女性がその玄関前に立っていた。背の低い男がインターホンを鳴らす。女性は嬉しそうに、もう一人の男の腕をぎゅっと掴んでいた。

「はーい、いま開けます」

 中から声がして、ガラガラと小気味よい音を立てて引き戸が開いた。

「秋ちゃん! 久しぶり!」

「花穗ちゃん! こんにちは。大地も数豊も、よく来たね! さあ、中へ入って!」

 エプロン姿の秋が、満面の笑みで三人をもてなす。

「学ー、みんな来てくれたよ!」

 秋が奥に向かって声をかけ、三人が居間の座布団に腰を下ろしたとき、学が小さな赤ん坊を両腕にそっと抱きかかえて歩いてきた。

「数、大地、花穗も。久しぶりやな」

 学の顔には、かつての凍りついたような険しさはなく、穏やかな笑顔が浮かんでいた。彼の目元をずっと覆っていた色濃いクマは、薄くなっていた。学は愛おしそうに赤ん坊をベビーベッドに寝かしつける。

そうしてから、数豊と大地と学は居間に腰掛けた。


 少し離れたところで、花穗と秋がベビーベッドの中の小さな寝顔をのぞき込みながら、楽しそうにささやき合っていた。

「赤ちゃん、かわいいでしょ……」

「うん。そうだ!私と大地ね、実は来月に……」

 居間の棚には、秋と学の結婚写真が大切に飾られている。写真の中の秋は、白無垢の着物を艶やかにまとっていた。


 学は、すっかりスーツ姿が板についた数豊と大地にお茶を差し出した。

「懐かしいな。数豊はもう、高校生か?」

 近くのテレビからは、所在なさげに昼のニュースの音声が流れている。

 数豊が少し照れくさそうに頭を掻いた。

「うん。でも、すぐに高卒認定を取ったから、今は大学で経済学を専攻してる」

 大地が、昔と変わらない優しい目元を細めて頷いた。

「数豊は昔から優秀やったからな。僕は今、花穗と一緒に農業をやってるよ」

 大地の左手の薬指には、真新しい銀色の指輪が静かに光っていた。

 大地が温かいお茶をすすり、ふと学に問いかける。

「学は、今はどうしてるん? 車関係の仕事?」

「いや、車の仕事はできんかった。航海士の資格を取って、今は船に乗ってる。半分は漁師やけどな」

 そう言う学の顔のクマは薄れていた。しかし、確かに消えてはいなかった。

 その時、三人の耳にテレビから流れるアナウンサーの声が飛び込んできた。

「――本日、榊原内閣が大きな外交成果を発表しました」

 画面が切り替わり、誇らしげに胸を張る榊原の姿が映し出される。

『我々、榊原内閣は、粘り強い対話の末に、ついに北海道との完全合流に成功いたしました! かつての好戦的な三浦首相とは違い、我々が平和的解決を模索し続けてきたことの、大いなる成果であります!』

 数豊がテレビの中の榊原を、射殺すような鋭い目で睨みつけた。

「学……平気でこんなこと言ってるあいつらに、国を任せたままでいいと思ってるん?」

 学はお茶の湯気越しに、窓の外に広がる青い海へと視線を向けた。

「民主主義なのに、国民が本当のことを理解してない時点で、政治なんてそんなもんや……」

 数豊は諦めきれない真剣な眼差しで、学の横顔を見つめ直した。

「僕は、学にもう一度政界に戻ってほしい。僕が大学を卒業したら、必ず学を追いかけるから」

 大地も、真剣な表情で静かに頷いた。

「学がやるなら、僕も一緒に行くよ」

 学は、寄せては返す波のきらめきから視線を外さないまま、ぽつりと言った。

「大和な、今は防衛省の官僚らしい。大臣の次に偉い役職に就いてるって……」

 数豊がうつむく。

「学、それでも……!」

 学はゆっくりと二人の方を振り返り、歪に頬をつり上げて笑った。

「国民は、北海道があれほど執拗に金銀を欲しがったのか、その本当の理由すら分かってないんやから……腐敗だけが原因じゃない……」

「……もう、政治に関わるつもりは、一切ないの?」

 学は、花穗と秋に優しくあやされながら、時折小さな声を上げるベビーベッドの我が子に視線を移した。

「政治家なんてさせてもらえるわけ無い。だからこんなところに住んでるんやから……」

 やがて夕暮れが近づき、数豊と大地、花穗の三人が帰る支度を整えた。学と秋は、並んで玄関の前に立ち、彼らを見送る。

「三人とも、気をつけてな。またいつでも来てくれ」

 花穗が秋の手を愛おしそうに両手で握りしめる。

「秋ちゃん、子育てで忙しいとは思うけど、私たちの結婚式、絶対に来てね」

 秋は満面の笑みで答えた。

「うん、もちろん行く!花穗ちゃん、おめでとう。また会おうね」

 去っていく三人の背中を見届け、秋が我が子を抱き上げると、学はその小さな頭を、愛おしそうに優しく撫でた。

 その小さな家は、街の少し外れた静かな場所で、どこまでも穏やかな海をただじっと見つめ続けていた。

 

 それから、何年もの月日が、流れる水のように過ぎ去っていった。

 

「パパー! ママー! 学校行ってきます!」

 家の奥から、鈴を転がしたような元気な声が響いた。

「春ちゃん、車に気をつけて、いってらっしゃい」

 小さなランドセルを背負った女の子が、キラキラと輝く海沿いの道を元気に駆けていく。

 家の居間には、この数年で新しく増えた、たくさんの家族写真が賑やかに飾られていた。

 すっきりと綺麗に整えられた髭を蓄えた学は、ポストから取り出した一通の手紙に目を落とした。

『三浦学 殿

 すでにご存じかと思いますが、平等民主党が辞職し、この度、我が自由信党が再び政権を担うことになりました。

 大地は外務大臣に任命され、国政の第一線で毎日忙しく飛び回っています。

 僕は元々、政治家になる前に経済産業省の官僚を経験しようと思っていましたが、大地の強い勧めもあり、この度、外務省の官僚として任官することになりました。

 世界情勢もようやく安定の兆しを見せ始め、これから日本は忙しくなります。

 そこで、お願いがあります。外務省の官僚として、僕たちと共に働いてくれませんか?

 知恵を貸してほしいこともあります。

 なにとぞ、前向きなご検討をお願いいたします。

 ――数豊より』

 手紙を読み終えた学は、首筋を通り抜けた一瞬の寒気に、小さく身震いした。

 それから、万年筆を手に取り、返事を書き始めた。

「知恵はかす。みんなのことはずっと見守ってるよ——」

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