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37話(崩壊)

37話(崩壊)

 学は、照明の消えた薄暗い作業室ですがるようにスマホを握って、秋に電話をかけた。しかし、スピーカーからは虚しい呼び出し音が鳴り響くだけだった。

 同じ頃、秋が勤務する歯科医院のロッカールームでは、ロッカーの奥で主を失ったスマートフォンが静かに振動を続けていた。

 学は一枚の写真を片手に握りしめ、もう片方の手で必死に口を覆っていた。それでも溢れ出る大粒の涙を止めることはできず、彼は声を殺して、ただ激しく咽び泣いた。


 ようやく仕事が一段落した秋がスマートフォンに目を留める。学からの着信履歴に気づき、急いで掛け直したが、もう学が電話に出ることはなかった。

 学は一人、作業室の机に突っ伏して眠りに落ちていた。その手には、鬱蒼としたジャングルの中に横たわる、無数の凄惨な遺体を写した一枚の写真が強く握りしめられている。眠りの中でさえ、学の目からは一筋の涙が静かに伝い落ちていた。部屋の隅には縄が転がっていた。


 街の電気屋の前には、いつの間にか大勢の人だかりができていた。皆、店頭のテレビ画面を食い入るように見つめている。

「――支持率の低迷が続く自由信党内閣ですが、ここにきて新たな外交成果を上げた模様です」

 アナウンサーが原稿を読み上げ、画面が切り替わった。

「三浦内閣は、東南アジアのニューギニアから油田の権益を買い取ることに成功しました。詳細は分かりませんが、自衛隊の兵器との物々交換によるものと見られています」

 テレビの前で、市民たちが一斉にざわめき立った。

「最近は失敗ばかりの内閣だと思ってたけど、これはでかしたな」

「いや、でも国民の衣服不足の件は放置されたままだぞ」

「そうだ、そうだ!」

「これで支持率も回復するんじゃないか?」

「いや、三浦はやっぱり好戦的すぎる。危険だ」

「待てよ……兵器と石油を交換だと? この食糧危機の時代に、向こうだって石油のほうが重要なはずだろう。何かがおかしい……」

 この報道を契機に、これまで静観していたいくつかの地域が、次々と日本海連合国への合流の意思を表明した。街のガソリンスタンドには久しぶりに燃料が運び込まれ、石油を欲しがる農家たちであふれかえった。夜の街にはかつての輝きが戻りつつあった。

 しかし学は、そんな復興の兆しを見せる街並みを、暗い作業室の窓からただじっと見下ろしていた。その表情は、達成感とは程遠い、深い絶望に包まれていた。

 学はもう、いつもの中華料理屋に顔を出すことすらできなかった。街を元気に駆け回る子どもたちの姿を見るのも、今の彼には耐え難かった。ただひたすらに作業室にこもり、狂ったように鉛筆を動かし続けた。目の下のクマも、剃るのを忘れた無精髭も濃さを増していく。下まぶたは、ピクピクと絶え間なく震え続けていた。

 そんな、かりそめの平穏は数日と、もたなかった。


 再び、街の電気屋の前に怒号を孕んだ人だかりができる。

「――ここで速報です。三浦首相が、ニューギニアの新政府に対し、ピストルを極秘裏に売りさばいていたことが明らかになりました」

「どういうことですか?」

 画面の中で、コメンテーターが険しい顔で解説フリップを掲げた。

「これは人道上、極めて大問題です。まず前提として、ニューギニアではパンデミック前から、先住民と政府軍の間で深刻な政治衝突、つまり内戦が続いていました」

「当時は政府軍が圧倒的な戦力で先住民を制圧していたんですよね?」

「ええ。しかし、パンデミックが発生して以降、なぜか先住民と政府側の人口比率が逆転したのです。この原因は未だ不明ですが……」

 通行人たちが足を止め、一人、また一人とテレビの前に釘付けになっていく。

「人口の優位を得た先住民が一斉に蜂起しました。それを察知した三浦首相は、あろうことか、劣勢のニューギニア政府にピストルを売りつけたのです」

「ピストルを売る見返りに、石油利権を巻き上げた……ということですか?」

「その通りです。つまり三浦内閣は、石油を手に入れるためだけに、他国の民族紛争に油を注いだのです」

 カメラがニューギニアの凄惨な最前線を映し出す。

 ジャングルの泥の中に無残に転がる、数え切れないほどの死体。それがお茶の間の画面に映し出された瞬間、テレビを見ていた市民たちの怒りが一気に爆発した。

「なんて卑劣なことを……!」

「人間のやることじゃない!」

「三浦を辞めさせろ!」

「そうだ! 政権から引きずり下ろせ!」

 

 どんよりと曇った夕暮れの下、役所の前には瞬く間に数千人の群衆が膨れ上がり、激しいデモが巻き起こった。

 学の耳に、地響きのような民衆の怒号が突き刺さる。

「三浦は辞めろ――!」

「政権は退陣しろ!」

「辞めろ! 辞めろ! 辞めろ!」

 その先頭には、声を張り上げる榊原の姿もあった。

 怒号が建物を揺らすほど大きくなっていく中、学は一人、頭を抱えて机にうずくまった。窓の外にいかり狂う民衆の渦が見える。

「三浦はやめろー!」

 

 夜になり、緊急記者会見が開かれることになった。外では激しい雨が降り始め、群衆の数はいくらか減ったものの、熱狂的な怒りは冷めていない。

 学は震える手でネクタイを締め直し、記者会見室のドアノブを握った。左手だけが、どうしても自身の意志に反してガタガタと震える。

 後ろに控えていた数豊、花穗、大地の三人が、そっと学の肩に手を置いた。

 

 同じ頃、秋は歯科医院の診療室で、外のただならぬ騒音に気づいてテレビをつけた。

 学は深く息を呑み、意を決して扉を開ける。

 台座に登った瞬間、狂ったようなフラッシュの嵐が浴びせられた。無数の光が、幽鬼のように真っ黒な学の顔を白日の下に晒す。テレビカメラのレンズが、一斉に会見台に一人で立つ彼を捉えた。

「これより、緊急記者会見を始めます」

 司会の声が響く中、秋はテレビに映る学の姿を見つめながら、信太の写真をそっと胸に抱きしめた。

 記者が容赦のない声をぶつける。

「どうして、よその国の内戦にピストルを売るような真似をしたんですか!」

 学はうつむいたまま、掠れた声でボソボソと答えた。

「石油を……手に入れるためです……」

「他に方法はなかったんですか!」

「……ペルシャ湾も、アメリカも、南米も……世界中の貨幣制度が崩壊している中で、買えるわけがなかった……」

「こんな非道な行為をして、国際社会からどう見られるか分かっているのですか!」

「……中国も、ロシアも、アメリカも、どの国も国内の紛争で統合していない。何をもって『世界』というのか、分かりません」

 記者の追求はさらに激しさを増していく。

「こんなことをして、本当に許されると思っているのか!」

「……」

「結局、北海道との交渉に失敗したあなたの無能さが、この悲劇を招いた原因なのでは――」

 その言葉が引き金だった。学の心の中で、抑え込んでいた何かが一気に燃え上がり、気がつけば喉がちぎれんばかりの声で怒鳴り返していた。

「北海道との交渉は、一年前から永遠と続けていた! 長浜が連合国に合流するよりも、ずっと前からだ!」

 学の額に、太い血管が浮かび上がる。

「お前らはそれを一度でも報道したか!? 調べようとしたか!? 湖南放送局がこうして俺を熱心に叩くのは、俺が放送規制をかけたせいで、お前たちの利益が減ったからだろうが……! 結局は金のことしか考えてないくせに……!」

 学の息が荒くなる。狂気を孕んだ視線が記者たちを射抜いた。

「第一、北海道との交渉が決裂したのは、あいつらが腐りきっているからだ! 本州はこのまま何もしなければ、永遠に搾取され続ける。そうなれば、いずれ本当に戦争になる!」

 重い沈黙が流れた。

執拗にカメラのシャッターを切られる、会見室の机に立つ一人の男は、か細い震えた声を出した。

「誰かがやらなきゃいけなかったんだ……」

 男の言葉が、不意に詰まった。

「俺が……やらなきゃ、いけなかったんだ……」

 男は激しい目眩を覚えたように、右手で乱暴に頭を押さえた。


 秋が見つめるテレビの画面に、男のその右腕が大きく映し出される。

 スーツの袖から覗く、見覚えのある古い腕時計――それは、信太の形見の腕時計だった。

 ――その瞬間、秋の頭の中で、すべてが一つにつながった。

 なぜ、学が信太の腕時計を身につけているのか。

 信太が死んだあの時、学が見せた、絶望の表情。

 まるで自らに罰を与える呪いのように、倒れるまで重労働を自らに課し続けてきた理由。

 そして――「俺がやらなきゃいけない」という、今の言葉。

 秋の中でかつての自分の言葉が蘇り、胸に突き刺さった。

『信太の分、あなたが引っ張るんでしょ』



「学……」

 秋はゆっくりと立ち上がり、何かに弾かれたように歯科医院を飛び出した。

 誰もいなくなった診療室の床には、先ほどまで抱きしめていた信太の写真が、寂しげに横たわっていた。


 記者会見室では、一人の男の咆哮がなおも響き渡っていた。

「メディアは何の責任も果たさず、ただ好きな

報道をして、俺を戦争狂に仕立て上げる!」

 男の目から、堰を切ったように涙がこぼれ始めた。

「お前たちは……自分たちの未来のことなのに、全部他人に任せっきりだ。このデモだって、自分たちの鬱屈を晴らすためじゃないか! もし違うなら、今すぐ石油の確保方法を出してみろよ! できないだろうが!」


 秋は激しい雨が降りしきる夜の街を、泣きながら、ただひたすらに走った。冷たい雨が顔を叩き、涙と混ざり合って視界を遮る。


 会見場の台の上で、その男はついに力尽きたように膝から崩れ落ちた。詰めかけた記者たちは、その異様な気迫に圧されて静まり返っている。

「人類は……まだ民主主義なんてできるレベルじゃない……。国民は、問題が複雑だからと理解しようとしない。いや、理解できない。人類はいつだって腐敗し、目先の権益にへばりつき、明日のことしか考えられない。挙げ句の果てに、感情的に叩いて、優越感に浸っている……」

 カメラは、涙に濡れ、顔を歪ませて泣き叫ぶ一人の情けない首相の姿を冷酷に映し続ける。

「そうだ…………………………。……人類は……パンデミックの前からずっとそうだった……。 自分たちが作り出した経済システムすらコントロールできず、気づいた時には手がつけられなくなって、ただ衰退していくのを待つしかない。やってみなければどうなるか分からない、それが人類の限界だ。だから……だから少子化だって止められなかった……」

 一人の記者が、重苦しい沈黙を破って声を振り絞った。

「それはあなたの言い訳に過ぎない。犯した罪を、反省しているのですか」

 男は手元にあった水の入ったコップを、狂暴な手つきで掴み取った。

「もし石油を手に入れられず、国が飢餓に陥ったら、お前がその責任をとるのか? ああ!? クソが! その時は、お前の持ってる食料を全部俺に寄こせ! 俺の生存を保証しろ!」

 男はそのコップを振りかざし、記者に向けて投げつけようとした。

 その時、記者会見室の重い防音扉が、大きな音を立てて撥ね開けられた。


「――もういいよ」


 冷たい雨を切り裂くような、しかしどこか温かい声だった。全身を激しく濡らした秋が、息を切らしてそこに立っていた。


「秋……」


 男は掲げたコップを取り落とし、泣きじゃくりながら、迷子の子どものように弱々しく秋へと手を伸ばした。

 秋は迷うことなく男の腕を取り、群衆とカメラの群れを押し退けて走った。男は引っ張られるように役所の階段を駆け上がった。秋は資料が山積みになった作業室に飛び込むと、すぐに重い扉を閉め、鍵をかける。

 床にへたり込んだ男の瞳は、焦点が完全に定まっていなかった。

「秋……人類にはまだ早すぎるんや……政治なんて……俺たちには、でけへん……」

 秋は溢れる涙を手の甲で拭い、男の右手首に手を伸ばした。そして、彼が頑なに嵌め続けていた腕時計のベルトを強引に外した。

「学が、こんなものをつけてるから……!」

 彼は、奪われまいとして弱々しく抵抗する。

「アカン、秋……信太がな……『日本を元に戻せよ』って……俺は、あいつと約束したんや……!」

 男の目から、またとめどなく涙が溢れ出す。

「あいつが死んだのは……俺が……俺が不甲斐ないから……。俺がもっとちゃんと賢ければ、あんなことにならんかった……」


「俺のせいや………………」


 秋は外した腕時計を、部屋の隅へと力任せに投げ捨てた。金属質の鈍い音が室内に響く。

「学は何にも……何にも悪くないよ」

 秋は優しく、しかし確かな力強さで男の濡れた両頬を包み込んだ。

「俺は……小さい頃から、ずっと出来損ないやった……。俺が賢ければこんなことには……」

「そんなこと、どうだっていい」

 秋は男の目を見つめ、静かに、言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「学の劣等感も、不器用なところも、全部……私が全部、愛すから」

 秋は、震える男の唇に自らの唇を重ねた。

 学はゆっくりと、ただ静かに目を閉じて、その温もりを受け入れた。

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