35話(実行)
35話(実行)
木枯らしが吹き抜ける湖南の広場で、榊原の声が今までになく鋭く響き渡っていた。
「——自由信党内閣は、北海道との外交交渉に『戦艦』を誇示して臨みました。しかし、結果はどうですか! 交渉は無残にも決裂したではありませんか! これを政治家の無能、外交の敗北と言わずして何と言うべきか!」
集まる大衆の声。
「そうだ——!」
「相手を威圧し、不安に陥らせるようなやり方で、対等な交渉など成し遂げられるはずがありません! 我々『平等民主党』は、北海道との対話を平和的に、かつ互恵的に成し遂げることをお約束します!」
榊原の演説は熱を帯びて続いていく。
「三浦首相は好戦的である!国民には使わせずに、自衛隊基地に石油を蓄えている!これを戦争の予兆と言わずしてなんと言いますか!」
かつては閑古鳥が鳴いていた彼の街頭演説を囲む聴衆の数は、日に日に、確実に膨れ上がっていた。
一方、そんな政治の混迷とは裏腹に、街には活気が戻りつつあった。市場や個人商店の数も一年前とは比べものにならないほどに賑わいを見せている。
政府の大会議室は、ひっきりなしに出入りする職員たちで慌ただしい空気に包まれていた。
若手の官僚がプロジェクターのモニターを指し示す。
「この統計資料からお分かりいただける通り、回収・消毒された衣服の供給量は、数字上、現時点の国民の需要を完全に満たしております」
一通りの拍手のあと、司会が次の議題を告げた。
「……続きまして、市場における『紙幣の枯渇問題』について、尾瀬財務大臣よりご報告をお願いします」
「はい」
尾瀬が重々しく起立した。彼の斜め後ろには、いつものように数豊が補佐として控えている。
「尾瀬です。えー、近頃の急速な経済成長に伴い、市場で流通する紙幣の絶対的な不足が深刻化しております。京阪神の銀行から回収してきた旧世界の新札も、いよいよ底を突きかけており……」
学がゆっくりと腰を上げた。
「その件については、すでに具体的な対策の第一段階を始めています。こちらをご覧ください」
モニターの画面が切り替わり、一枚の日本地図が映し出された。
「この先、連合が拡大していくにつれて、さらに大量の紙幣が必要になります。そこで、根本的な解決のための策を立てました。……『東京』にある、中央銀行を確保します」
学の指さす地図の中の東京を一同が眺めた。
その瞬間、会議室が、水を打ったように静まり返った。
「東京……? 発行権(輪転機)を直接手に入れるということですか!?」
周囲の議員や官僚たちが、一斉にざわつき始める。新参の他県職員の一人が、隣の官僚に怯えたような声で囁いた。
「あの……東京まで勢力を伸ばすというのは、そんなに危険なことなんですか?」
「関東は旧世界における最大の超過密都市だった。生存者の絶対数が桁違いに多い。それに対して、あそこには生存者を養うだけの田んぼ(食糧生産地)がないんだよ。だから、街全体が極限まで飢えて、狂暴に荒れ果てている。……湖南の比じゃない、地獄のような場所だよ」
ベテランの議員が学を諭すように声を上げた。
「東京遠征には、あまりにも甚大な危険が伴いますよ、首相」
「分かっています」
学の冷徹な声が響く。
「ですが、紙幣の枯渇をこのまま放置すれば、この国の経済は遠からず停滞する。中央銀行の発行権さえ得られれば、我が国の信用と権力は絶対的なものになる。やらなくてはならない。……東京遠征には、自衛隊を投入します」
(……中央銀行を手に入れ、統一紙幣を刷ることができれば、地方ごとの不公平な紙幣価値の格差もなくなる)
「——それでは、本日の会議はこれにて終了します」
司会の声と共に皆が席を立ちかけた、その時だった。ガヤガヤと騒がしい会議室の奥から、一人の議員の鋭い声が投げつけられた。
「首相! 石油の件はどうなるんですか! 北海道との交渉は完全に決裂したでしょう。このまま京阪神の金銀を使い果たせば、もう二度と石油は買えなくなる。国民にどう説明するつもりですか!」
書類を片付けようとしていた学の手が、ピタリと止まった。ペンを握る指先が白くなる。
「……石油の件については、現在、別ルートでの協議が進行中です」
学はそれだけを言い残し、誰の目も見ずに会議室を後にした。大和は黙ってそれを見ていた。
毎度のことのように、全体会議が終わると、いつもの高島のメンバーが総理作業室へと集まってきた。
大和が、いつになく真剣な表情で重苦しく口を開く。
「学……石油の件、ホンマはどうするつもりや」
「他の策を、今考えてる」
「——ドンッ!」
大和が容赦なく机を叩いた。凄まじい衝撃音のあと、部屋に冷たい沈黙が流れる。
「お前が前、考えた、『最後の策』は完璧や。……あれを使え、学」
窓の外の曇り空を見つめていた大地が、静かに振り返った。
「学……二人だけで抱え込むなよ。その『最後の策』のこと、僕らにも教えてくれよ」
花穂も、数豊も、そして秋も、大地の言葉にすがるように頷いた。数豊が手元の資料をいじりながら、焦燥感を滲ませる。
「学。京阪神の金銀(埋蔵財宝)は、俺たちだけじゃなく、他の地域の武装勢力も狙ってる。いつまでも俺たちの独占状態が続くわけじゃない。いつか必ずなくなる」
学は、自分の頭をガリガリと乱暴に掻きむしって言う。
「……金銀がなくなることだけが問題なんじゃない」
大和が、太い手を顎に当てる。
「どういうことや、学」
「俺たち日本海連合は、金銀をサハリンの石油と直接交換している。でも、もし……北海道の奴らが、自分たちの野菜や穀物と俺たちがサハリンに渡した金銀を貿易し始めたら……」
大和の目が、ハッとした。
「……そうか。 俺たちが渡した金銀がサハリンから北海道に流れる。間接的に、本州のすべての金銀が北海道に集まることになる」
大和が、いつもの野太い声を部屋に響かせる。
「そして、北海道がその莫大な富を使って、本州の他の勢力から最新の兵器を買い漁り始めたら……」
学が言葉をつなげた。
「本州は永久に、北海道の奴隷になる。かつての『三角貿易』なんて生ぬるい、最悪の搾取構造が完成する。……もう、時間の問題や」
大地が、驚愕のあまり目を丸くした。
「……だったら学、その『最後の策』って一体何なんだよ!?」
学は、深くうつむいた。
「……皆には言わん。これは大和と二人だけで話す。……皆、部屋から出ていってくれ」
「学、そんな! 今までずっと一緒にやってきたやろ!?」
大地の叫びを、学の冷たい声が遮る。
「……皆のためやから。悪いようにはせんから。……頼む」
皆は、やるせない表情を浮かべながら、一人ずつ学の部屋から退室していった。しかし、一番最後に出た花穂は、完全にドアを閉め切らず、ほんの数センチの「隙間」を残した。
花穂と大地は廊下の壁に身を潜め、そのわずかな隙間に耳を澄ませた。
静まり返った室内で、大和が学に向かって話し始めた。
「……学、お前、あそこまで先のことをわかってたんか」
「ああ……」
「だったら、誰よりも状況が分かってるくせに、なんで使わんねん。最後の策を今すぐ実行しろ!」
大和が学の肩を強く揺さぶる。
「学! 戦争になるか、全員が餓えるかや!」
長い、重苦しい沈黙が流れた。学は、右手に着けた信太の形見の腕時計を、じっと見つめた。
「……わかった。最後の策を……使おう」
そう答える学の、左手だけが、ひとりでにガタガタと激しく震えていた。
「学、まずは『ピストル』を集めるぞ」
学は、それには何も答えず、ただ黙秘を貫いていた。
ドアの裏で聞き耳を立てていた花穂と大地が、顔を見合わせて息を呑んだ。
「……ピストル? 大地、学はやっぱり、北海道と全面戦争をする気なのかな」
「そんなわけ……。でも、何かがおかしい。……学のことを本当に理解してくれて、止められる人に、このことを話さないと」
花穂は、張り詰めた表情のまま、一人の女性の顔を思い浮かべていた。
「学を、止められる人……」
その時、廊下の気配に気づいた大和が、内側からドアを乱暴に閉め切った。
「——バタンッ!」
「学、本題に入るぞ」
「……」
部屋のカーテンは完全に閉め切られている。あの駐車場に停まるバスの姿を見ることは、もう、できなかった。
うらぶれた中華料理店の、右端のカウンター席。
学は油の染みた机に書類を広げ、取り憑かれたようにペンを走らせ続けていた。学の下まぶたの筋肉は、小刻みに痙攣を繰り返している。無精髭は伸び放題になり、目の周りのクマはドス黒くなって、死人のような形相を呈していた。
「——ガラガラ」
安っぽいガラスの引き戸が開き、一人の女性が入ってきた。彼女は、学の隣の席を一つ空けて、静かに腰掛けた。
「……いらっしゃい、注文は?」
厨房の店主の問いかけに、女性は黙って首を横に振った。
学は、微かに口を半開きにしたまま、隣の存在に気づきもせず、ただ書類に文字を書き殴り続けている。
やがて、女性が静かに口を開いた。
「……久しぶり」
「……」
ペンの音が響く。女性の声が、少し大きくなった。
「久しぶり、学」
その声に、学の動きが止まった。ゆっくりと、濁った横目を向ける。
「……理奈」
店の外を、一台の自転車がカラカラと音を立てて通り過ぎていった。
「聞いたよ。北海道との交渉、失敗したんだってね」
「ああ……」
「戦艦なんかに乗って行ったって……?」
学は何も言わず、ただ再びペンを動かし始めた。
「そんな脅すような真似をして、相手が真剣に話を聞いてくれると思ったの? ……今のあなたの政策を見てれば分かるよ」
「……」
「学、……戦争をするつもりなんでしょ」
その瞬間、学の頭の中で、かろうじて繋ぎ止めてられていた糸が、音を立てて千切れた。
ただ、気づけば怒鳴っていた。
「まだ分からないのか!——理解しようともせず、いっつも自分勝手だから嫌いなんだよ!」
理奈はすでに学とは反対の方向を向いており、その表情を窺い知ることはできなかった。
彼女は、静かに席から立ち上がった。そして、一度もその顔を学に見せることなく、早足で店を出て行った。
中華料理店を背に、彼女は小走りで夜道を歩いた。だが、やがて耐えきれなくなったように立ち止まり、古いコンクリート塀に片手をついて激しく肩を震わせた。理奈の目からは、大粒の涙がボロボロと溢れ、冷たい地面へと吸い込まれていった。
誰もいなくなったカウンターの席で、学は書類の上にうつむいたまま、声を押し殺して、子供のように泣きじゃくっていた。
「……なんで、なんで分かってくれないんだよ……。俺は最初から、戦争する気なんて、無いんだよ……」
(理奈…………俺は……弱くて……)
涙で滲む視界の向こうに、かつて理奈と笑い合っていた温かな思い出が、次から次へと鮮烈に蘇ってくる。
しかし、もう二度とあの頃には戻れないということを、学は誰よりも理解していた。




